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扉の向こうから誰かが中に入ってきた瞬間、いちこは相手を確かめることもなく、迷わずにその胸の中へ飛び込んでいった。

「おっと!」
いちこの出迎えを正面から受けたのは三原だった。
お化けかと腰を抜かすわけでもなく、まるでいちこがそうして出迎えてくるのを予知していたかのように、三原は酷く冷静だった。
いちこの体が自分に触れる寸での所で、三原はいちこの動きを止めてしまった。
まるで暴漢から身を守る術を得た者の様にひらりと身をかわと、自分のすぐ隣で呆然と立ち尽くすいちこの顔を覗き見た。

「どうしたんだい?いきなり僕に抱きつこうとして。随分君は大胆な行動を取るんだね」
三原の言葉にいちこの心は凍りついた。
キャンバスに書かれたメッセージから、心身共に酷く弱っている三原を予想していたのに、目の前に現れた三原はいつもと全く変わりが無い。
「おやおや、随分とずぶ濡れじゃないか」
三原は深いため息をもらすと制服の胸ポケットに手を添えた。
「このままじゃ、風邪を引いてしまうよ。
いちこ
手品師のような優雅な動きでハンカチを胸ポケットから出すと、まず
いちこの髪に触れる。
「きれいな髪だ。僕のと違って、君の髪質はしっかりしてる。黒くてまっすぐ。外国人から見たら、きっと憧れるだろうな」
良い子良い子と、親が子の頭を撫でるかの様に、三原の手はハンカチを通しても尚、深い慈愛を感じる。

「三原くん……」
濡れ髪を三原に拭いてもらいながら、いちこは震える声で三原の名前を呼んだ。
「うん?」
「今まで……どこに行っていたの」
「何処って?何でそんな事聞くの」
「何でって、私……」

いちこの詮索を心から咎める風でもなく、ただいちことの言葉遊びを楽しんでいるようにさえ聞こえる。
感動の再会のはずが、どうしてこうも切ない気持ちになるのだろう。
いちこは三原に怒りを覚えた。

「あたし、三原くんの事、ずっとずっと探してたんだよ!」
頬にハンカチを当てられると、いちこは咄嗟に「いやいや」と首を振った。
「探してた…?どうして?」

いちこのきつい口調に三原の手が止まった。
「どうして…って、そんな」
「あっ、ひょっとしていちこ。君は、僕が書いたあの手紙を読んでここまで来てくれたのかな」
そう言いながら、三原は実験台に置かれたキャンバスに目を留めた。
「暗くてあまり良く見えないけれど…あれを外に持っていったんだね」
あのキャンバスはもう使えないな。小さく独り言をいったつもりだが、それははっきりといちこの耳に届いた。

「ひどい…」
悔しくて涙がこみあげてくる。 どうして三原は、自分の心をこうも惑わすのだろう。
あのキャンバスに書かれた手紙は、三原の単なる言葉遊びだったのか。
「ひどい?」
僕の何処が酷いのだろう。三原は髪をかきあげながら考える様な表情をになる。
「うん。ひどい。ひどずぎるよ、三原くん」
たまらなくなって、いちこは三原の傍から離れる。そして猛然と出口に向かって歩き始めると、すぐに三原がついてきているのを感じた。
「どうしたんだい、
いちこ
はじめて三原の声が不安なものに変わった。でももう遅い。遅すぎる。
これまでどんなに、彼のきまぐれに付き合おうと心がこんなに痛む事はなかった。
友達だから。三原の事を一番近い所で知っている友達だから。そう思うことで深い優越感を味わっていた。
だけど、今は本当の自分の気持ちを知っている。これが恋心だと知った以上、もう今までのように付き合うことはできない。


「そこを退いて!」
いつの間にか、
いちこを抜いて三原は扉の前に先回りしていた。
「お願いだから」
気付けば、涙が溢れていた。
親にも友人にも滅多に見せた事の無い泣き顔を三原に見せてしまった事で、更に
いちこの気持ちは高ぶった。
「お願い!」
「嫌だよ」
静かではあるが、三原の強い意志を感じる。
いちこは更に激しく泣きじゃくった。
「お願い……」





***************************************************

こんな感じで話は続いております。「いろどり」。三原くんと主人公「横井いちこ」のお話。
こちらは「monmon」の方で書いてますので、こちらのアドレスを知っていらっしゃる方は
どうぞ話の続きにお付き合い下さい。

カンタループについて、色々とお問い合わせやメッセージありがとうございます。
ぺるしゃま、茅さま。ボトルキープありがとうございました!

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「柏の葉」
 


狭い部屋に肩を並べて一緒につまんだ柏餅は、私たちを懐かしい気持ちにさせた。
端午の節句だからと選んだおやつは、伸び盛りの少年にはほんの一口分だった様で、
皿に盛った5つの餅をぺろりとたいらげると、彼は満足そうに鼻をならした。
「ごちそうさま」
「おいしかった?」
「うん。部活の帰りだったから丁度腹減っちゃってさ」
得意の泳ぎを活かして入ったクラブでは、毎日20キロ以上も泳がされるらしい。
赤茶色の髪からは微かに塩素の匂いがする。
「ツレとコンビニ行こうとしてたらメール着たじゃん。柏餅ってだけしか書いてなかったけど」
「それだけで来たんだ」
「うん!柏餅の威力ってハンパ無いっすよ」
本当に、柏餅と二文字しか打たなかった。もっと続きを書き足そうと思ったけれど、つい手元が狂って送信してしまったのだ。
「遊くんが小学生の頃は、必ずここで柏餅だったよね」
「うん……」
仲良しのお隣さん。そんな近所づきあいのつもりで続いた「柏餅イベント」も、彼が中学に入るのと同時にそれは消えた。
大学生の女の子の部屋になんか行ってはいけません。
向こうのお母さんに止められたのかもしれないし、彼から行かないと決めたのかもしれない。
やがて道端で会っても無視されてしまうほど、彼ははっきりとした形で私と距離を取るようになった。
またこうやって互いの家を行き来できるようになったのは最近の事。
駅で偶然、彼の定期券を拾ったのがきっかけだった。
思い切って電話をしたら彼が出てくれた。切られる前に「お家にくる?」と声をかけたら、彼は暫く沈黙した。
そしてやっと気持ちをまとめると、彼は恥かしそうに私の家を訪ねてくれた。
少し前の様に、学校の出来事やお家の事をちょっとだけ話しをして、おやつを食べる。
ただそれだけのつながりだけど、私にはそれがとても心地良い。
彼氏では無いけれど、一番傍にいてくれると、安心するのだ。


「葉っぱばっかり」
「うん。葉っぱも食べれたら最高なんだけど」
「もう、ほんと食い気ばっかりなんだから」
食べ終わって手元に残った柏の葉は、独特の優しい匂いがする。
掌の上で丸めたり広げたりすること数回、随分軟らかくなってしまった葉の表面を最後にぷすりと指で穴をあけてしまうと、隣の彼は「にい」と笑ってみせた。
「見てこれ」
もう1つ穴を隣にこさえると、今度は柏を顔に当てる。
葉を横にして、ちょっとしたアイマスクみたいだ。
「だーれだ」
「えっ。……遊…くん?」
「ぶっぶー。答えはタキシード仮面!」
「……えっ?」
「昔好きだったでしょ。好きなタイプは?って聞いたら、真顔でそう答えてたよね」

すぐ傍にある本棚にちらりと視線をうつすと彼はまた笑う。
左脇の縦列2列。あそこに私のタキシード仮面様は眠っている。
「あの頃」は、本当にタキシード仮面の事が好きだったのだ。
子どもの頃にテレビの再放送でそれを見て、はじめて恋をした相手がそのお方。
それは大きくなっても暫くの間は対象が変わることがなかった。
本当に好きだったから正直にそう答えたまでの事。
だけど、質問をよこした方は私の回答にびっくりしていた様だった。
ただ一言、「16歳……なのに?」と言うと、そこから先はずっと黙ってしまった。
あの時は、どうして黙ってしまったのか理由は分らなかった。
だけど、それまで子ども扱いしていた彼の事をちょっぴり申し訳なく思ったのは覚えている。
ひょっとしたら、架空の人物よりもリアルな男の人を好みにあげた方が良かったのかも。

「今は変わりましたけど」
ちょっとすました感じで答えると、「はいはい」と彼は軽く流した。
「今は……そうですね。私の隣にいる人がタイプです」
少し前までは「お姉ちゃん!」と無邪気な顔して声をかけてくれた君。
私とは随分年が離れているけれど、そんな事は少しも気にならない。
「お、俺がタイプって……アンタどうかしてるよ」
柏のアイマスクをしたまま、彼は怒ったような声で言う。もう、私の事を「お姉ちゃん」とは呼んでくれない。
「どうかしてる?」
「うん」
「そうかな」
「そうだよ」
ますます機嫌を損ねたようで、彼はとうとう私からぷいと背を向けてしまった。
「そっか……」
いつのまにか背は越されて、ちょっと大人びた顔をしている君が好き。

「じゃあ、遊くんに質問します」
床に落ちた柏の葉を拾い集めながら、私は彼に聞いてみる。
「あなたの好きな女性のタイプは……どんな人ですか?」
きっと答えは返ってこないと思っていた。そして、明日からはもうこの部屋に来てくれないとも。
「俺の好きな女の子のタイプって?それは……」
柏のマスクを外すと、彼は私のほうを向いた。そして少し怒っているような顔で私を見つめると、彼は私の頬に手をかけた。
「アンタだって言ったら、どうする?」
そう言って私の頬に軽くキスをしてくれる。足元でかさりと葉の音がした。



fin




GS2の遊くん。大きくなった遊くんを見てみたい!ちょっと俺様で、でもすっごい恥かしがりやな遊くんになっていると嬉しい。そして、デイジーとつきあっちゃえば良いんだ。


 


「いったいどうしたもんだろうねえ、たーちゃんは。
2年ぶりに会えたって言うのに、さっきからずっと怒ってばかりだよ。
こどもの時のたーちゃんは、そりゃあ優しい子で、おとなしかったなあ。
だれに話しかけられても黙ってニコニコ笑っててな。
たーちゃんは人とお話するより、大根やジャガイモにむかってブツブツと喋ってたな。
ほら、あれ、たーちゃんが二年生の時かね、学校のクラスの子達に苛められて泣いて帰ってきたことが」

「煩せえっ!黙ってやれ!この……」
糞婆あと、最後に付けたかったが、それだけはぐっと口にするのを堪えた。
かわりに目の前に青々と生えた大根の葉をぎゅっと鷲掴みにすると、斉藤は勢い良く土の中から引き抜く。
土の中から出てきた大根は、思ったよりも細長い。
「たーちゃん、大根の首が太いのをみつけて選ぶと良いのよー。
そうしたら、太くで大きいのだからね」
煩せえと罵られたばかりなのに、隣の畦から、また声がする。ああもう!と、斉藤は心の中で唸った。


降りた駅から歩くこと30分。赤黒い土の中から、青々と茂る大根菜。
広大な農地の一画、斉藤は実家の畑にいた。
羽織っていたスーツの上着は荷物車の助手席に預け、シャツの袖をまくって渋々と収穫を手伝う。
どうしても今日明日中に、この大根を全て収穫しなくてはならないのだ。

「悪いねえ、たーちゃん。婆ちゃん、明日の朝にはお迎えが来るからさあ、どうしても全部抜いて欲しいのよ」
だからお願いねえ、と手を合わせて老婆は笑う。
あの世からお迎えに来てもらえるなら願ったり敵ったりだが、そんな気の利いたところでは無い。
向かう所は特別養護老人ホーム。略して「特老」。
斉藤の祖母は、今年の春からそこで暮らしているのだ。
二年前に夫を看取って以来、少しずつ認知症が進んでいる。徘徊や不潔な事はしないが、それまでの記憶は全て曖昧な状態になってしまった。
自分の夫や息子、親戚や嫁の名前は全て忘れた。
ただし、孫の「たーちゃん」こと、斉藤の事は異常な程に覚えている。
生まれた日の時間、身長と体重、下の歯が生えた日のこと、はじめて歩いた時のこと……家族の者が殆ど忘れてしまっているような事でも鮮明に覚えている。

口に出してこそは言わないが、彼女は斉藤家にとって一番の厄介者だ。
ただし、斉藤家の財産の殆どは、全てこの老婆が権利を持っている。
呆けるまでは、相当計算のできる、しっかり者だったらしい。
今でも銀行に預けた7つの通帳の残高を、1円単位で覚えている。
どれだけ呆けても、これだけは。
先祖様から受け継いだこの山と土地だけは、死ぬまでちゃんと、面倒見なくては。
彼女の几帳面な性格だけが、頑なに守られているのだ。

ちなみに斉藤の几帳面さは、祖母から譲り受けたと言ってもおかしくない。
息子をはじめ、親戚一同はみな、祖母の財産をあてにしている。
その為、彼女が気まぐれに畑のことを気にかけた時だけ、家で面倒を見てやっているのだ。
そして今日、斉藤が手伝いに使わされたのもその為である。
明日の朝になれば、白いワゴン車が一台。こちらに寄越してくる。
老婆はそれに乗り込むと、暫く家には戻ってくる事は無い。おそらく、来年の正月までは向こうに行ったきり帰れないだろう。

「たーちゃん。アンタ、もう幾つになった?」
お嫁さんは、まだもらわないの?たーちゃんがお嫁さんもらったら、ばあちゃん、この土地もお山も全部アンタにあげるからさ。孝行しておくれよ。
小さい体を、もっと小さく屈めながら老婆は作業を進める。
「いらねえよ、土地なんてさ」
斉藤はぽつりと答える。
「なんでよ」
「俺、こんなとこで何もする気ないし」
「そうかい?」
「それより金が欲しい。な、婆ちゃん。金くれない?」
小山の様に重なった大根をケースに詰めながら、斉藤は本音を吐く。
この土地売って金にしなよ。そうしたら俺がその金を使って、一儲けしてやるからさ。
一度悪いことを覚えてしまうと、なかなか元には戻れない。
こんな事を考えているのがどれだけ愚かで馬鹿らしい事か、斉藤は自分でも分っている。
だけど、どうしてもそう言わずにはいられない。
「お金ねえ」
作業する手を止めて、老婆は空を見上げる。
「たーちゃんは、お金を使うのが下手だからねえ」
「……ちぇっ」
「たーちゃんが苺を自分の手でいっぱい作ってくれるって言うなら、婆ちゃん考えてあげるけどねえ」
「誰が苺なんざ!」

やい、糞婆あ。まだらボケなんざしてないで、とっととあの世に行っちまえ。
心の中で更に悪態をつきながらも、斉藤は手を休めない。
気がつくと、きれいに葉を揃えられた青首大根が、きっちりと何ケースも収まっている。
我ながら良い仕事をしていると、斉藤は感心する。
「たーちゃん、後でお茶淹れようかね」
老婆は目を細めて笑った。









その頃、部屋の中で1人の少女が瞑想していた。
外はまだ陽が出ていて十分明るいのだが、遮光カーテンで遮った8畳程の洋室は、夜の様に暗い。
机の上には蒼いシルクサテン地で作られた小さなクッションが置かれ、
その上には公式野球ボール程の水晶玉。
年頃の少女が持つには違和感を感じるようなアイテムだが、少女は両手でその玉を包み込むと、更に瞑想を深めていく。
「神秘なるこの力、どうぞ私に見せて下さい。この私の心の曇りを晴らしてください……」
やがて行き着く所まで辿り着いたのだろう。
少女の細い体が、静かに震えた。






FIN



久しぶりにジンぐる更新。この続きから、ミヨ視点になります。

子どもの頃、一度だけ生き物を飼った。子どもと言ってもそんなに昔ではない。今から5年前だ。
蝉やザリガニ、カブト等は当時の自分としては飼育の対象では無かった。遊びで捕まえることはあっても、捕まえた時点でその目的は達成していた。それよりも図鑑を広げて動かない物を眺めている方が好きだった。
なのに、あれだけはどうしても飼ってみたかった。それも絶対に番(つがい)で欲しかった。
親に言うと、最初のうちは随分反応が厳しかった。

どうして二匹なの?それも番じゃないといけないなんて。増えたらどうするの?他所の所で聞いたけれど、とんでもないぐらい増えるらしいわよ。ちゃんと面倒見れるの?玉緒……。

どう言われ様と、僕はあれを飼いたい。飼っても良いと言ってもらえるまで、絶対に口をきいてやるものか。
家で叱られるようなことは一度も無い。休む間も無いほど塾通いで予定を勝手に埋められても、一度も反抗しなかった僕は、この時はじめて親に抵抗した。僕の頑な態度に、親は勿論のこと、少し年の離れた姉も驚きを隠せない様子だった。

反抗期なんだよ、タマちゃんは。
のんきな口調で姉はそう親に説明しているのを聞いたけど、僕は聞こえないふりをした。
そしてむっつりと黙ったまま、僕は一冊の本を読んでいた。
きっかけはこの小説からだ。作者の思春期の頃を書いたその話が、僕の心を強く突き動かした。
あれを飼うと、本当にそんな気持ちになるのか。
そんなに、体のどこかが、それまで知らなかった感覚に陶酔してしまうのだろうか。
知ってみたかった。作者と同じものを飼って、その気持ちをどうしても共感したかったのだ。

結局、僕の主張は何とか聞き入れてもらうことができた。
ただし、望まない中学受験をさせられて、きちんと合格する事を条件としてだ。
当時親友だった子は、地元の中学に進学することが決まっていた。
親友をとるか、それとも受験をするか。結論を決めるのに、あまり時間はかからなかった。
その日から徹夜で勉強をして、僕は合格を決めた。そして合格した翌日、僕は念願のそれをつがいで飼い始めた。

そして、あれほど飼うことを反対していた親が、飼いはじめたら一番可愛がっていた。
つがいなのに、「うー子」と「みー子」なんて変な名前を勝手につけて、我が家の中で一番新鮮な野菜を与えていた。
名前なんてどうでも良かった。とにかく、話の中にでてきたあの描写を、この目で見たい。
赤い眼に垂れた耳。
----タマちゃん、どうしよう。凄く可愛いよ。私の手から餌食べるようになったよ。
姉も親と同様に可愛がる。どうしようと聞かれても、僕は何も答えなかった。
可愛くて結構。それよりも、あの描写を早く見せてくれ。
ゲージの中の二匹に向かって、僕は心の中でそう命令する。だけど奴らは黙々と、与えられた物をぼりぼりと齧っているだけだった。







もしかして、番(つがい)ではなかったのかもしれない。
増殖するのを恐れて、親は初めから同性を二匹用意したのかもしれない。
そう疑う様になったのは、飼い始めてから二月した時だった。
期待していたあの描写が、何も再現されないのに随分やきもきしていた。
ひょっとしたら自分が学校に行っている間に、あれをしているのかもしれない。
そう思うと、登校するのを辞めたいとさえ思うようになってしまった。
やがて季節は梅雨時を迎え、蒸し暑くなってくると、僕は新しい問題を抱えることになった。
奴らの匂いが部屋の中で篭るようになったのだ。
犬や猫に比べれば、ずっと控えめかもしれない。
だけど奴らは独特な匂いを僕の限られた空間に放つ。
しだいにカタカタとゲージを奮わせる音も耳につくようになり、僕はすっかり奴らとの同居が嫌になってしまったのだ。

-----だから言ったじゃない。あれは外で飼うものなのよ。ほんと、タマちゃんは考えが足りないって言うか。

部屋で飼う事を断念した僕に向かって言った姉の言葉、僕は今でも忘れられない。
高校を卒業して、急に大人っぽくなった姉の顔。
口調は相変わらずおっとりとしているが、その表情は大人の女性そのものだった。
口紅を引いた口元が凄く卑猥に感じて、僕は思わず顔を背けた。そして、僕が心の奥で求めていた憧れや希望が、姉の一言で一瞬に消えてしまった様な気がした。
思わず僕は、姉の頬を手ではたいてしまった。物心がついた時から、喧嘩なんて一度も無かったのに、その時はじめて、姉を酷く憎んだ。
今思うと、あんなに憎む事では無いと思うのだが、あの時はどうしようも無かったのだ。
物語に描かれたあの部分は、僕にとって深い情緒を持っていた。
あの情緒に触れた事で、僕はこれからどう、その情緒と向き合っていかなくてはならないのか、真剣に悩んでいた。
拒絶しようとすればするほど、それは強く僕の心を魅惑する。
そして、その想いは体の一部にも強く影響を与える。
あの一件以来、僕と姉は距離を置くようになった。僕はもう、子どもではない。姉は、そう悟ったのだ。


程無くして奴らは、家の外で飼われる様になった。ただし、野良猫やカラスに襲われないようにと、小さな車庫の隣にゲージは置かれた。
僕達の、それまでの過剰な可愛がりから解放されて、奴らははじめて自由な雰囲気を味わっていた。
ただし狭いゲージの中に閉じ込められてはいるけれど、それまでよりはずっと開放感を感じたに違いない。
奴らの眼は急に輝きはじめ、狭い空間の中を忙しく動き回るようになった。
白い毛と茶色の毛が、ゲージの隙間から毛埃の塊となって、幾つも外へ出されていく。
何かが変わる。僕は漠然と、そう予感した。

僕の予感が当ったのは、それから数日後。期末テストが始まって、いつもより早く家に戻ってきた時だった。
前の日から降り続く雨が車庫の屋根を伝い、地面に小さな穴を規則的に構成する。
ずぶぬれの体のまま、自転車を車庫に入れようとしたとき、それは起こった。




ゲージは銀色の格子。7月の生ぬるい雨粒が数滴伝っていた。何気なく覗いた囲いの中、奴らは僕から完全に背を向けて丸いからだを震わせている。
あれは確かウー子の方だった。ピーターラビットを思わせる薄茶色の長い毛。
ミー子の体を背後からしっかりと押さえつけ、かくかくと小刻みに尻を振る。
たっぷりと肉のついた尻はミー子の真っ白な尻にぴたりと合わさっている。
時間にして1分ぐらい。
ウー子は紛れも無く雄だった。わずかな隙を見つけて逃げようとしたミー子の耳を齧ると、更に激しく尻を振る。
姉さんや母さんを和ませた愛らしさは何処にもなく、真っ赤に燃える眼でミー子を支配する。


「チッ・チッ」
突然、ミー子の鳴き声が聞こえた。鳴かない動物だと信じていた自分は、ミー子の一声で相当なショックを受けた。
それは助けを求めているようには聞こえなかった。この、特別な行いをしている時にだけミー子は声を漏らすのかもしれない。
濡れたような目で、ミー子はどこかを見つめていた。

これか。
僕は心の中で唸った。
これが、あの風景だったのか。
津軽に生まれた面長の男は、頬杖をつきながらアンニュイな表情で、この情景を眺めていたのだろうか。
そしてひっそりと胸をときめかせていたのだろうか。
クライマックスを迎える頃には、ウー子はもう、一羽の兎では無くなっていた。
兎の面を借りた、獣の姿だ。
僕はウー子が力尽きるまで見届けると、部屋に行った。僕もいつかは、ウー子と同じ様な事をするのだろうか。
できればミー子の様な、色の白い子だと良い。尻の形がきれいな子だと良い。
その夜僕は、もういちどあの本を読んでから眠りについた。
たかが兎の交尾。だけど、僕はあの話を読むたびに胸がドキドキする。
そしてやっと自分の目で確かめることができたのだけど、僕は彼ほど興奮することは出来なかった。
彼の想いを共有できるようになったのは、つい最近の事。兎を飼い始めてから随分経っている……。








笑うとぽちっとえくぼのある、色白の女の子。
小柄で痩せているけれど、水着を着せてみたら、色んなところが程よく膨らんでいた。
僕が好きになった人「小波みなこ」は、そんな感じの子。
僕は見栄っ張りだから、極力彼女には自分の気持ちを見せないようにしている。
本当は手を繋いでみたいし、できたらキスだってしてみたい。
叶うのなら、僕もウー子の様に彼女を背後から押し倒したい。
そして激しく腰を振ってみたい。

だけど僕は耐えてみせる。彼女の前では常に礼儀正しく優しい先輩でありたい。
学習で遅れている部分があったら、余裕を持って教えてあげたい。
「紺野せんぱい」
ほら、また、あの甘い声で僕の名前を呼んでいる。
全く君は、さっきから隙だらけだ。どうしてそんなに丈の短いスカートを履いて、僕の前にいるんだ。
どうしてそんなに胸のあいた服を着ているんだ。
どうしてそんなに……魅力的なんだ。
「あのね、みなこさん」
彼女がくしゃみをしたのを切欠に、僕は羽織っていたカーディガンを脱いだ。
「もっと温かいのを着てきて下さい」
僕はそっと彼女の背中にカーディガンをかけた。
「だって……」
「そんなんじゃ、風邪ひくよ」
できるかぎり慈愛を込めて、僕は彼女を戒める。
「僕の姉さんが言っていたけど、女の子はその……あんまり腰を冷やすといけないって」
「どうして?」
本当にわからないと言う感じで僕を見つめる君。僕はやれやれとため息をつく。
「どうしてって、その。ほら、冷やすと赤ちゃんができにくいとか……聞いたことない?」
「……あっ」
やっとわかったのか、顔を赤らめると、羽織ったカーディガンのボタンをとめようとする。
「ねっ。もっと自分の体を大切にしなよ」
そうだよ。僕のためにもね。
いつか君と子どもを作るためにも、大切にして欲しいんだよ。
僕はきっと、あの兎と同じぐらい、君を責め続けるよ。だから…ね。
小柄な体の君は、僕の白いカーディガンをまとうと、更に可愛さを増す。


まるで兎の様だ。






fin




玉緒ちゃん。クロ玉緒ちゃん。
ちなみに、玉緒ちゃんが兎を飼いたいと触発された物語、タイトルは「思ひ出」。
誰の作品かは、ぐぐってみてw
私はこの作品を14の頃に読んで、ものすごく悶々としたのを覚えています。





「この子は言葉が遅くてね。ほんと、大人しい子だった」
盆正月で親戚が集まると、決まって親はそう言って斉藤の幼い頃を偲ぶ。本人にも僅かだがその記憶は残っている。
3つの年を数える頃、親に連れられて専門家に診てもらった。嫌いな注射を打ちにいくのかと思ってそこまで辿り着くのに随分暴れた。終いには、当時まだ達者だった爺さんに体を担がれて軽トラックに荷台に放り込まれてしまった。
鶏糞のつまった麻袋と一緒に荷物と同じ扱いを受けた事、今思い出しても胸が痛い。
後で知ったが、連れて行かれた場所は病院ではなく、保健所だった。
殺風景な部屋の中、制服を来た女の職員が自分の傍に来て何か話しかけてきた。
自動車で遊びましょう、絵本を見ましょう、おやつを頂きましょう。
機械的に繰り返される職員の促しに対して、幼い自分は無関心を装った。
親とは随分違う優しい言葉がけ、無意味なスキンシップと愛想笑い。
何となくではあるが、自分を試されていることは分っていた。この部屋にはいないが、親も何処かで自分の様子を伺っているのも知っていた。
どうすればまわりを落胆させる事ができるのか。考えた末にとった行動は「だんまりを決める」事。
部屋の隅にじっと座りこみ、親指を吸う。
まわりのため息が聞こえてきそうな空気を感じ取り、斉藤は一人満足した。

検診の結果、要注意との判定が下された。知恵は劣ってはいないが、言葉が遅いのは確かとの事。
言葉を知らないのではなく、言葉を発する気持ちが育っていないと。
その後両親は、しばらく色んな所へ行っては、息子の療育の為に躍起になった。
特に母親はたいそう心配した様で、気に病むあまりに息子を激しく叱った。いつだったか、「いただきます」の挨拶ができない事に腹を立てられて、挨拶ができるまで外に放られた事がある。
秋の初めの夕暮れは思ったよりも早い。自分の家も近所の家も、灯りが灯っているのに、自分の足元は悲しくなるほど暗かった。
刈り時を待つ稲刈り機の座席へよじ登ると、斉藤は声を殺して泣いた。自分は本当に愛されているのか、良く分らなかった。
親の期待通りの行動をとらないと、愛情を求める事さえも許されないのではと思った。


そんな自分が、今では言葉を商売にして生きている。
全てを疑って懸かる者、あからさまに嫌悪を抱く者と対峙した時ほど、血が騒ぐ。
しゃべって、しゃべって、しゃべりまくる。相手が聞くのに疲れ果て、その挙句に「YES」と言わせてしまうまで喋り捲る。
売りつける商品が十分胡散臭いのを承知の上で、相手に購買を決意させた時の快感。
これが悪だと誰に罵しられようと、この商売を辞める気は毛頭無い。
そうやって自分を酷く罵る奴には、一番高額で粗悪な物を売りつけてやる。
どこまでも腐りきった舌で、あの時も同じ様に貶めようと斉藤は企んでいた。
上手く誑し込めば、その報酬は十分期待できる。斉藤は必死だった。今までに無いほどの声色を使って、相手を良い気にさせてやろう。気合十分で相手に向かったのに……。


「何」
黒髪の少女は斉藤を見るなり怪訝そうな表情を浮かべた。そしてため息をつくとゆっくりと瞼を閉じる。
長い睫が閉じられていく様を、斉藤は見逃すことは無かった。僅か数秒の間に起きた事なのに、そこだけ時間がゆっくりと進んでいく様だ。
「あなた、誰」
目が開くと、今度はじっと見つめられた。何かを見透かすような神秘的な目に斉藤の心はざわつく。
「お、俺?」
思わず声が裏返った。
「俺はそのー、こ、こ、こういう、こういう者なんだけど…って、あれ?あれっ?な、無い?!」
背広の懐に手を入れながら斉藤は叫んだ。いつもなら僅か2秒程で相手に差し出す名刺が何処を探しても無い。
これはどういう事だ。斉藤は混乱した。このままでは唯の不審者だと思って逃げられてしまう。
「あ、本当は名刺がちゃーんとあるんだけど、どっかいっちゃってさ。君があんまりにも可愛いから、おにーさんちょっとパニくっちゃって!あは、あはははは」
ああ神様、どうか俺にチャンスを!必死に頭の中で念じたものの、その願いは届かなかったようだ。
カルソンを脇に挟むと、少女は斉藤から離れようとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
邪魔な前髪を手で払いのけると、斉藤は少女を追った。
「は、話聞いてくれよ!」
駆け出した先に鳩が群れている。慌てる斉藤の足音に驚いて、鳩がわっと飛び上がった。10羽以上の羽ばたきに少女の足が止まる。

「あの、俺。俺…」
社会人になって以来、ずっと怠けた体で全力疾走をするのは、相当堪えた様だ。破裂しそうな程の激しい鼓動に、斉藤は思わず胸を押さえた。
「ほ、ほんとに君が可愛いと思って、それで話しかけたんだ。俺、スカウトの仕事をしてるんだけど、君を是非アイドルにしたいと思って、それで」
「結構です」
「えっ?」
どういう事?俺がこんなに「君が可愛い」って言っているのに。恐ろしく冷めた声に斉藤は震えた。
「いや、その。ねっ、俺の話ちゃんと聞いて」
普通なら、ここで相手の両肩をつかんでがんじがらめにして説得する所だが、少女の肩に手をかける事はしなかった。
全身から何か発する物を感じて、さっきから手が少しも言う事を聞かないのだ。ひょっとして、少し前に流行った気孔ってやつだろうか。
「話は聞きました」
「だ、だから。君はすごく可愛いの、分る?友達から良く言われるでしょ?男の子に、もてたりするんじゃない?でしょ?でしょでしょー?だよねー。おにーさん、もう少し自分が若かったらスカウトじゃなくてマジナンパしようと思って」
「臭い」
「へっ?!」
何、臭いって。いきなり衝撃的な発言に斉藤は面食らう。
そして次の言葉でノックアウトを決められてしまう事を知らずに。






第三話 おわり。

恋の始まりは、最悪な印象をお互いに持って。








※monmon掲載の「童貞を失えば」に色々と暖かい感想をありがとうございました。
官能系の話って読むのは楽しいと思うんですよ。それで、その人なりにドキドキしたりムラムラしてもらえればそれで良いなって思います。感想を伝えるのは難しいですよね。内容が、内容なだけに。
自分がmonmonのサイトを立ち上げるきっかけになったのは、8年ぐらい通い続けているウェブ作家さんの作品に影響を受けております。
とにかく、この方の書かれる官能小説は素晴らしい。どれだけ感動して泣いた事か。
読んでいると、頭の中がピンク色に染まります。
身も心も潤うってこういう事を言うんでしょうね。
官能小説は侮れませんよ。性欲は人間にとって絶対に欠かすことのできない欲望です。
その欲の発し方を、どう文学的に表現されているか。
子どもの時から太宰治やヘルマンヘッセ等の話しを読んでは、むらむらしていた自分にとっては、
その方の作品は正に心の底から読みたかった官能小説でした。

この2年余り活動を休止されていたのですが、この秋から活動を再開されました。
この事をついったーで知った時は、本当に嬉しかった。
思わず「ついったーを始めてよかったと思ったこと。アナタの更新を知ること」と、言葉を送っちゃいましたもん。
それでですね、いつかはその方に感想文を送りたいと思っています。
時々下書きしてみるんだけど、難しいですね。好きですと、ただ一言伝えればいいのに、それがなかなか。

なので、「童貞を失えば」に感想を送って下さってありがとうございました。
あっ、スパムメール並のやーらしい文章でもOKですよ(笑)。何か感じたものがあれば、どうぞ自由に伝えてくださいね。


そうそう。昨日、久しぶりにビレバン(ビレッジ・バンガードと言う名の本屋さん)に寄ったのですが
「エロい物コーナー」の所に手塚治虫の「奇子」が詰まれておりました。

くるよねえ、奇子。
差別・偏見・近親相姦・強姦
漢字だらけですが、この作品は正にこんな感じ。素晴らしい作品ですよ。

ではでは、色々と話しが飛びましたが今日はこのへんで。
大掃除はちっとも進みません。

通勤客で隙間無く埋め尽くされた車内の中、吊るされた広告版が小さく揺れはじめた。
緩やかなカーブに添って、3両編成の鈍行列車が海沿いをゆっくりと進んでいく。
それまで居眠りを決めていた斉藤は、ゆっくりと顔をあげる。深酒のせいで頭が酷く痛い。
スーツのポケットから小瓶を出すと、まだ半分ほど残っている液体をゆっくりと口に含む。
瓶口から漂うかすかな薬草の香りが、弱った胃壁を刺激する。
丁度胃底のあたりを擦りながら、全てを飲み干す。空になった小瓶をポケットに仕舞うと、斉藤は大きく溜息をついた。

昭和の終わりに開通した「はばたき線」は、海沿いにそって南北に50キロ弱の路線を結んでいる。
始点から終点まで17ある駅のうち、「新はばたき駅」はちょうど真ん中のあたりに位置する。
山と海に囲まれたこの街は、駅を中心に随分栄えているが、数キロ先の次の駅にさしかかるとすぐに景色は様変わりする。
元は農業と漁業が盛んな田舎町だ。線路が敷かれてもそれはさほど変わらない。
寒色のビジネスコート、ウールのセーター。無表情な顔で吊革に手をかける乗客の隙間から、かすかに赤い色が揺れている。座席に腰掛けた目線からすると、あれは子どもだ。
「おい」
斉藤は立ち上がると、赤い色に向かって声をかけた。



電車の扉窓に額をぎゅうと押さえつけるような格好で、斉藤は残り2つの区間をやり過ごすことにした。
背を向けた方向から、子供の喋り声が聞こえる。たぶん席を譲った子どもだろう。
同じ学校に通う友達を見つけたのか大声で名前を呼んでいる。
うるせえな、ガキ。いつまでも馬鹿みたいに騒いでると頭叩くぞ。
子どもだから譲った。だが、子どもは嫌いだ。
それも、こんな二日酔いの朝にあんなキンキン声で騒がれちゃ、たまったものではない。
席なんか譲らなきゃ良かった。くしゃりと手で顔を覆っ後、斉藤は「ふうー」と鼻息を窓かける。
そして、熱気と鼻息で一面に曇った窓に手を滑らせる。僅かだが、そこだけ風景がはっきりと色を持って斉藤の目に飛び込んできた。

それまで見えていた海岸は消え、代わりに赤茶色の農地が広がっていた。収穫を終えて休耕する農地の中にぽつぽつとビニールハウスが点在する。
温暖な気候の特色を生かして、この辺りは菊や蘭など観賞花の栽培や苺の栽培が盛んだ。
代々農業を営む斉藤の実家も、苺の出荷で忙しい。今朝方、斉藤の下に届いた携帯メールは実家からだった。それもただ一言、「収穫を手伝え」と。
--------だーれが、苺なんか摘んでやるか。
子どもの頃からこの時期になると、毎日苺の収穫を手伝わされた。夜明け前に起されると、ビニールハウスの隣にある倉庫で出荷の作業を手伝わされる。
倉庫の中は極寒だ。暖かいのはハウスだけ。摘み取る作業は大人の分担、箱詰め作業は斉藤の分担と物心ついた時からそれは決まっていた。
摘み取られた苺を形良く箱の中に詰めていくのだが、収穫した物は形と大きさを見て細かく分けていく。
果物屋に並ぶ贈答用の苺が全て向きを揃えてきっちりと収まっているが、それは全て人の手に関わっている。斉藤は誰よりも手際よくその作業をする事ができるのだ。
今ではハンカチの皺がくしゃくしゃになろうと全く気にもとめない男だが、元は几帳面な性格だ。
斉藤がまだ2つか3つの頃、正月に大勢の親戚が集まった際、盛大に脱ぎ散らかした客の靴を、客が酒盛りしている間に一人で全て並び直したらしい。
大人ばかりで遊びに飽き足りていたからこそ、自然に生まれた遊びであったが、それを見た大人たちは驚愕した。
男物と女物、若者から老いている者。おもちゃとして扱った客の靴は、見事に分類されていたのだ。
「この子は苺で成功するよ」
親戚の誰かがそう言って斉藤を誉めた。酔った雰囲気の中でそう言ったに違いないが、斉藤の親はその言葉を真に受けた。
丁度、ビニール栽培で何か作ろうと考えていた時だったのだ。


それ以来、冬が近付いてくると、斉藤は滅入った。はじめは面白く感じた苺の仕分けも、自分が成長するにつれ面白味は薄れた。
遊びでは無い。家族の生計に関わっていると子どもながらに現実を悟ったのだ。
そして、苺の栽培が自分の将来に深く関わってきそうな予感がした。
----苺なんて見たくもねえ。
高校を卒業したと同時に実家を離れたのは、そういった理由だった。
親は農業専門の大学に進学させたがったが、それも頑なに拒んだ。見かねた父親が受験を強制した為、ますます嫌になった。
結果、受験は失敗し浪人。斉藤はそれを機に、一人で就職を決めてしまったのだ。そこが入社三ヶ月で倒産するとは知らずに……。

額をつけていた扉が、がたっと音を立てた。駅に着いたと気づくと、斉藤は扉から離れた。
その瞬間、扉が開く。斉藤に続いて4、5人の客が続いて降りていく。
わずかな定着時間を使い切ると、列車はホームを離れていく。ベンチに深く背をもたれかけさせた姿勢で、斉藤は列車を見送った。
改めて腰を下ろしてみると、まだ胃の辺りが辛い。
-----どんだけ飲んだんだよ、俺。
目を瞑り、昨日ことを一部始終思い出そうとするものの、殆どの記憶が曖昧だ。
一番新しい記憶は、深夜の1時。三件目の居酒屋のトイレで2度ほど嘔吐した。便座につっぷして、そのまま眠った。
それより前は…前の晩の11時ぐらい。同僚の「高木」と赤提灯で酒を飲んだ。たぶん、昨日の「あの事」がネックになってたと思う。随分高木に話しを聞いてもらった。
ただ、高木に何をアドバイスされたのかは覚えてないし、あいつも俺が何を愚痴ってたのか覚えていないだろう。
それより前は。
銀行の預金残高がマイナスになっていたこと、家に戻ったら高校の時の連れが結婚したと葉書で知ったこと、玄関のチャイムがピンポンと鳴ってうっかり出てしまったら、宗教の勧誘でうんざりしたこと、それからそれから……。
少しずつ記憶が戻るにつれ気持ちが酷く滅入っていく。
そうだ。あれだ。俺がこんなに二日酔いで苦しむのも、元はと言えば全部アイツのせいだ。
アイツの…、アイツのあんな一言さえなかったら、俺は。
それ以上の記憶の再生を、できる事なら止めていたかった。しかし「アイツ」という言葉が頭の中に浮かんだ時点で、斉藤は止めることができなくなっていた。
激しい頭痛と目の奥に宿る少女の残像。
暮れて行く景色の中に、斉藤は自分と少女の姿を探す。
少女はベンチに座り、斉藤を見つめていた。お得意の軽い雰囲気で声をかけたつもりだった。
もう何度も使った手口だ。

君可愛いね、何しているの、あ、びっくりした?したよね、したよねごめんごめーん。
いやあ、君凄く可愛いから、お兄さんちょっと声かけたくなっちゃったんだよね。ああ、怖がらなくても良いよ、お兄さん何にもしないからさ。

この言葉をとにかく叩きつける。相手がびびって逃げ出さないように、まずは「君が可愛い」って事を向こうのイメージに叩きつける。女は可愛いと言う言葉に弱い。きれいより、可愛い。若かろうか御婦人だろうが、年は構わない。これで大抵の女は俺の話しを聞いてくれる。くれるはずだった。
あの時、俺が間違わなかったら。

君、可愛いね……。

どうして俺、そこで止めてしまったのだろう……。
斉藤はそこまで思い出すと「そんなのありえねえ」と呻いた。





第二話 おわり




実家は苺農家。あたらしく、こんな要素を斉藤に足してみました。この苺が後に関わってきますよ。



昨日は応援拍手ありがとうございました。ハイヂさん、ありがとうね~。

自販機の缶コーヒーのボタンを今日はこれで6回押したことになる。どの位置に、どのコーヒーがあるかなんて目を瞑ってもわかる。
斉藤は一人愚痴ると、受け口からコーヒーを抜き取る。触れた瞬間、斉藤は大きく舌打ちした。
「ちっ。まだぬるいじゃんよー」
ったく、こんなぬるいもんなんて飲めやしねえ。金返せ、この野郎。
悪態を続けようと思えば幾らでもつきたい所だが時間が無い。ふて腐れた顔でプルタブを抜くと、「ぐき」と喉を鳴らす。味わう余裕さえも無い。わずか数秒で胃の中に120mlの液体を流し込むと、斉藤は歩き始めた。空になった缶は数歩先のゴミ箱へ。
斉藤は缶を放る事はしなかった……。


学業を終えて就いた先は広告代理店。の、はずだった。
入社して三ヶ月目に会社は巨額の負債を抱えて倒産。斉藤を含め、20数名程の社員は路頭に放り出された。斉藤と同じ新卒の者もいれば、その春に子どもをもうけたばかりの者もいる。
いきなり職を失い、失意状態の斉藤達の前に、突然会社の負債を一切請け負ってやると豪語する男が現れた。
斉藤よりひとまわりほどしか年の違わないその男は、この一年で自社ビルを4つも建てる等、急激に羽振りが良くなった。
男の名は「ボス」。本名は非公開。その素性を詳しく知る者は皆無に等しい。

黒塗りのベンツとアルマーニー。そしてクロコダイルの靴で決めた男は、斉藤達に金儲けの話をこう持ちかけてきた。
「今から俺の元で、俺の言ったとうりに働いてみな……。そうすれば、数年経った頃にはオマエも俺みたいな金持ちになれる。
だがその前に、まずはその安っぽいスーツをゴミ箱に捨てろ。
金を借りてでも良い物を着るんだ。そうすれば運がオマエに味方するさ……」
男の強気な発言に、斉藤は男へのカリスマ性を感じた。そして言われるがままに、男の下で働くことを決めたのである。

 

 


「あっ…っと」
スーツの胸ポケットの中で携帯電話が震えた。やべえ、“ボス”だ。着信音を耳にした斉藤の足はぴたりと止まった。
「はあ」とため息をつくと、空を仰ぐ。空は斉藤の心を現すかのように暗く澱んでいる。
とにかく電話に出なければ。慌ててポケットに手をいれると、ひったくるように携帯を取り出す。
ボスを真似てつけたスワロスキーが液晶画面を眩しく彩る。
きれいだと信じて宝飾を施してみたものの、斉藤の稚拙なセンス故、どう見てもおもちゃにしか見えない。
意を決して通話のボタンを押した瞬間、斉藤は慢心の笑みを浮かべて電話に出た。

「お待たせしました、ボス!」
いやあ、すいません。さっきまでトイレ行ってたんでちょっと出るの遅くなっちゃって。
ああこっちの方は順調にいってますよー。もうさっきの婆ちゃんなんか田舎の孫思い出すって泣きながらハンコ押してくれましたよ。えっ?そうそう、『神秘の波動水』。あれなんて大人気ですよ!どっかの議員さんが使ってた『なんちゃら還元水』よか、ずっとウケが良いですもん。もう、さすがボス!次から次へと目の付所が違います!もうほんと、神。アナタは神ですよ、ボス!

よくもまあ、こうも次から次へとおべんちゃらが言えるものだ。向こうは俺の稼ぎがさっぱりな事を知って電話をよこしているのに、どうしても口が止まらない。
恐ろしいのだ。相手が自分に話しかけてくるのが心の底から恐ろしいのだ。
一緒に働いていた奴は殆どがいなくなってしまった。それもある日突然にだ。
同僚の一人は富士山の樹海に連れていかれたと聞くし、ある者は記憶をなくしてしまったらしい。
ヤクザではないが、この仕事が真っ当な道を歩んでいない事ぐらい、自覚している。
ひょっとしたら、俺だって同じ目にあうかもしれない。そう思うと、捲くし立てるしか他無いのだ。
とにかく、「ちゃんとやってます」と言う熱意だけは伝えておかなければ。

「それでですね、ボス。俺が思うには、俺のモチベーションをもっと高めるためにも、報酬をもう少し」
「上げて欲しいのか、斉藤」
「えっ?!いや、そ、その」
しまった。調子に乗って喋っているうちに、つい本音を漏らしてしまった。案の定、電話の向こうから男の笑い声が聞こえる。
「客を取り逃がす才能しかないオマエが言う台詞か?斉藤よ」
「し、失礼しました!」
ちびりそう……。恐ろしさで胸がつぶれそうだ。あと数時間後には自分の名前を忘れているかもしれない。
斉藤は心の中で必死に自分の名前を唱える。
俺の名前は死んだ婆ちゃんがつけてくれた名前。ただしく生きろ、ただしく生きろと思いをこめてつけた名前。なのにどうも正しく生きることが苦手になっちまったけど、俺はこの名前を捨てられねえ。
だから俺は…!
「斉藤よ」
男の声がすっと耳に入ってきた。

 

 

 

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ああ、さっきはやばかった。俺、ホントに生きた心地がしなかった。
公園の水飲み場で顔を洗うと、斉藤はホッと安堵のため息を漏らした。
とにかくボスは自分を許してくれた。それも次の仕事の課題を具体的に教えてまでしてくれた。
「-----アイドル養成事務所として女の子をスカウトとはねえ。ふっ。ボスも気が利くよ」
ズボンのポケットからぐちゃぐちゃに折りたたんだハンカチを引っ張り出すと、濡れた顔に押し当てる。
男の次の仕事の依頼は、「美少女を一人スカウトしろ」。
それまでは妖しげな健康食品を年寄り相手に売りつけていたが、今度は女。それも女子高生ときてる。
いつ「お迎え」が来るかもわからない者を相手にするより若い方がずっとましだ。

「まっ。俺はこの土地に詳しいしー」
この地域は良家の子女が通うミッション系の高校が3校。そのうちの丘の上にある高校は斉藤の母校でもあった。
斉藤が在学の頃から、そこに通う女子高生は美形が多く、世間にすれていない。
同校の卒業生として声をかければ、話しが進みやすいのでは。
「上手くスカウトに成功すれば……」
アイドル養成に準備金が必要と言って、親から多額の金額を請求できる。
親元から離すために上京させたら、後はこっちのものだ。やれレッスン費だの衣装代だの幾らでもせびるチャンスがある。2、3年ぐらいたっぷり搾り取った後は、「売れなかった」との理由で返すか、または体を売れば良い。
「やっぱボスは、俺の事が大事なんだな。なんだかんだ言って、ボスは俺を可愛がってくれる」
卸したまま、一度も洗っていないのだろう。拭き取ったハンカチは汗ですえた香りがする。
いつもなら乱暴に捨てる所だが、斉藤はそれをしなかった。
公園の奥のベンチにたたずむ女の姿をとらえたのだ。
年は15、6ぐらいだろうか。肩まで届く黒髪が少女の可憐さを強調していた。きちんと揃えた膝からのびる足はカモシカの様に細い。

「すっげえ…なんか“お人形さん”……」
みたいだ。それも実家の母が嫁入り道具として持ってきた博多人形に良く似ている。
陶磁の様な白い肌に、斉藤は思わず見惚れてしまった。

どれぐらい経ったのだろう。
それまで座っていた少女がすくっと立ち上がった。学校の鞄と他にもう1つ。学校鞄よりもひとまわり大きく薄型の手提げ鞄を見て、斉藤はふと思い出した。
学生の頃、はじめてつきあった女が同じものを持っていた。当時の彼女は美術部に所属していて、いつも描いた紙をその薄っぺらい板状の鞄に挟んでいたのだ。
確かあれは……。
「カルトン…。カルトンだ」
ほんの一瞬、彼女との思い出が頭を過ぎった。文化祭に向けて、自分を題材にしてデッサンを繰り返した日々。人気の無い造形室ではじめて口付けを交わした事。そして、はじめて童貞を失った事。
すべてが不器用の一言で片付けられた苦い思い出。
斉藤は頭を振り払うと、その思い出を強引に消した。そして手提げポーチの留め金を外すと、レイバンのサングラスを取り出した。
大きい仕事をする時にこれを使え。ボスがそう言って譲ってくれたものだ。

「ボス。今度こそは上手くやりますよ」
そう呟くと、斉藤は少女に向かって歩き出した。

 








第一話 おわり



斉藤ですよ、あの斉藤です。
ミヨちゃんですよ。あの宇賀神です。
「さとミヨ」です。そうです。斉藤くんとミヨちゃんの、恋のお話なんです。
絵チャで平●均さんが、すっごくかっこいい斉藤くんを描いてくれました。
おいらはそれを見た瞬間、頭の中を一気に話のイメージが浮かび上がりました。
最初はノリで「斉藤の話を書くー」と言っていましたが、書き始めたらかなり真剣になりました。
久々の三人称です。
書いちゃいますよ。
どなたか、「さとミヨ」を支持して下さいまし。パワー頂けたら、下手なりにも、筆が乗ってくると思います。
どうか…!


って事で、夜中にがーーーっと書きました。随分荒い文章ですが、まずはこのままにしておきますね。

あと、絵チャにおこし下さったバンビ様。ありがとうございました!




 



流行の音楽や若者の会話、車の排気音に救急車のサイレン。
日曜日の街中はとても賑わっていて、ありとあらゆる所から色んな音が聞こえてくる。
だから「痛っ」と呻いた私の声は、虫の羽音よりもかすかなものだと思っていた。
なのに先輩は、ぴたっと立ち止まって振り返った。
距離にして20メートルぐらい。その間に沢山の人が壁を作っていたのに、先輩は振り返るなり怪訝そうな表情を浮かべた。そして今度は少し怒ったような顔になって、ずんずんと私のほうへ戻ってくる。
ああ、“また”怒られちゃうんだ。いつも何かと小言を頂戴しているから、この時もそんなものだと思っていた。
けれど、この時の先輩は今までと違った。私の前にくるなり手をぎゅっとつかんで、歩道の端へ連れて行く。
そしてジャケットの胸ポケットからシルクのスカーフを出すと、しゃがみこんで私の左足首をつかむ。
「ひやっ」と変な声を思わず出した瞬間、「騒ぐな」と一喝。
びっくりして口を押さえると、先輩は私を見上げた。片足をひざまつく先輩の姿は、まるで姫に永遠の愛を誓う王子様の様で思わずドキドキしたけれど、その目を見た瞬間私の心は凍りついた。
ぞっとするぐらいの冷たい視線で先輩はこう言ったのだ。

「今すぐ、ここで靴を脱げ」と…。




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「だからあれ程言ったんだ!オマエが俺の言う事を聞かないのが悪い」
「だって先輩が良いって勧めるの、先輩、幾らするのか知ってます?」
「知らない。値段などいちいち見て気にする必要は無い」
「気にするんです!先輩と違ってアタシは庶民の子なんですよ!先輩が良いっていうのを全部聞いてたら、私の家は破産します」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿なんかじゃありません!馬鹿なのは先輩です!」
「なっ!オマエ…」

あれから数分後。かすかな車の振動と控えめに流される交響曲をBGMに、私達は口論を続けていた。

「だいたい紺野がオマエに余計な事を言うからいけないんだ」
「紺野先輩が薦めてくれたのは、凄く良かったですよ。設楽先輩が薦めてくれたデザインのと良く似ていて、それでけっこう安くって」
「で、結果はこうだ。オマエは今、足を痛めている」
「うっ…」
思わず言葉が詰まってしまった。数日前、紺野先輩も加えて3人で買い物に出かけた時に、その靴を見つけた。設楽先輩から先に薦められた物と良く似ていて、これなら2人の気持ちを上手く組めると、内心ホッとしていたのに。

「若いうちは、安物を履いてもそれなりに似合うとかアイツは言うが、俺は断固として否定する。
安物が悪いとか言ってるんじゃないんだ。高ければ良いってものでも無い。
ただオマエには…オマエの足には良い物を履かせていないと、俺が許せないんだ」
「何で先輩が許せないんです?私は自分が足を痛めようと全然構わないんですけど?」
「何でって、それはだな…」
「ええ」
「…わからないのか?」
「わからないです」
「くっ……。」
今度は先輩のほうが黙ってしまった。
嫌いなものを前にして、ぷいと顔を背ける子供の様に、先輩は窓のほうへ視線を逸らす。
それきり、私達はずっと黙ってしまった。
窓の向こうには、なだらかに続く石畳の道。手入れの行き届いた樹木が静かにそよいでる。
門の前で車が止まるとすぐに、大きな扉が開かれる。
お屋敷と呼ぶにふさわしい程の立派な造りの洋館が、開かれた門の向こうに見えてくる。

「着いたら手当てをしてやる」
少し力の無い声で、先輩はそう言った。




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素足で触れた大理石の床が、こんなに冷たいものとは予想していなくて、思わず声をあげてしまった。

たぶん、この家の使用人だと思う。「坊ちゃま」と小声で先輩に呼びかけると暫く2人で何やら相談を進めている。
すると今度は、私の靴を預けるようにと声がかかった。
ヒールの折れた靴は高級そうなスエードのクッションの上に置かれた。そして恭しい所作を持って、その靴は私の前から消えていく。
「捨てられちゃうの…?」
思わず先輩の袖をつかんでいた。あっと、気がついて手をひっこめる。
「心配するな。今から修理に出す。帰るまでには直っているはずだ」
耳に届いた先輩の声が思いがけず優しくて、それまで張り詰めていた心が一気に緩みそうになる。
「部屋まで階段を使うことになるが、その…」
見上げた先には、宝石をちりばめたようなシャンデリア。先輩の部屋は、螺旋階段を上りきった階の一番奥にある。
「その足で、オマエは歩けるのか?」
「大丈夫です。そんなに足はくじいていないし」
先輩が咄嗟に蒔いてくれたスカーフのお陰で、靴擦れした所の痛みは随分治まっていた。
「その…。何なら、俺がオマエを部屋まで抱きかかえてやっても良いが」
「いっ…!いいです!いいです!けっ、結構です!」
「そうか?こう見えても腕力だけは自信があるんだがな」
その瞬間、ふわりと体が浮いた。
「しっ、設楽先輩!」
「煩い。騒ぐな」
合わせた胸の鼓動がすぐにでも届いてしまいそう。恥かしさのあまりに思わず両手で顔を隠すと、耳元で先輩の笑い声が聞こえた。
「さっ、治療を始めるとするか」
「ち、治療…って?」
「まあな。少しは我慢しないとな」
「えっ?が、我慢って、何を?」
「部屋に着けばわかる。いつも俺がオマエにどんな思いをさせられているのか、今日はじっくりと思い知らせてやる」
「ええーーー?!」
「ふっ」
勝ち誇った様な笑みを浮かべると、先輩は軽々とした足取りで階段を上がっていく。
華奢な体からは想像もつかないほどその腕はたくましく、そして触れる手は優しい。

「覚悟を決めるんだな」
私の耳元にそう呟くと、先輩は部屋の扉に手をかけた。





fin








お盆休みですー。

黒設楽でございます。

この後どうなるのかって?

へっへーーー。




※カンナしゃん、ハイヂさん、メッセージありがとうございました!








「あ、そうだ。これだ!これが良い!」
バケツの中を覗くと、若い店主は思いついたような顔をして一輪の花を選んだ。
「これ…ですか」
でも、あまり日持ちしませんよ。鋏をいれながらそう伝えると、すぐに「大丈夫」と声が返ってくる。
「うん。大丈夫。" あの人”は直に来るから」

そうですか。ならば仰るとおりに。
予めこちらから用意した花器は使う事はなかった。
その代わり、彼は美しい器を選んだ。
ふと気を許した瞬間に手のひらを切ってしまいそうな程繊細なカットのバカラ。
すぐにでも頭を垂れてしまいそうなその小さな花の為に。

花一輪のお礼にと、淹れてもらった一杯の珈琲。
猫舌の僕の為に、いつも温め(ぬるめ)にいれてくれる珈琲はマンデリンの香り。
今宵はどんなゲストを迎えるのかな。随分冷えたそれを、なおも口元で冷ましていると、彼は笑う。
そして、「今日は、その人のために店を貸切にするんだ」と、言うその顔が少し寂しそうに見えた。

 

 


春には、春の。夏には、夏の。
野原や道端に咲いている花を少しだけ頂いて、小さな花器に生けてみるのが、僕の趣味。
花の他には、雰囲気の良さそうな苔を集めて苔玉を作ってみる事も。
植物と触れることが好きな僕にとって、これは趣味の一環であるのだけど、幸いにも僕のこんな変わった趣味を大事に拾ってくれる人がいた。
ジャズバー・カンタループの主人、益田義人氏。
たぶん年齢は僕よりも一回りほど上だろう。高校の時の恩師が、彼と竹馬の友らしい。
恩師よりも少し若く見えるのは、人好きのする笑い皺がそう思わせるのだろう。
話をしていると、僕との年齢差を感じさせないほど彼は気さくだ。だけど、彼の元を訪ねてくる顧客は、
皆素敵に枯れている。僕もいつか、あんなふうに枯れてみたいと憧れる人ばかりだ。
だから、今日のお客の事が気になるのは本心だ。

ちなみに益田氏が僕の趣味に気づいたのは、ひょんな事からだった。
丁度大学で、新しい酵母の開発研究を行っていた時。たまたま教授と一緒に店を訪れた時、
カウンターの隅に置かれた花瓶の花に僕が少し手を加えたのを、彼が目に留めていたからだった。
花を長く生かすために、「水揚げ」をさせるのは一般的な常識だけど、僕は植物の種類ごとに
鋏の入れ方を知っていた。どのあたりに刃を入れるかで、細胞を殺す事無く活かすことができる。
自分の中ではそれが何でもない事だった。だけど彼は、僕の行為に関心を抱き、向こうから心を開いてくれた。
開いてくれたからには話をしないわけにもいかず、僕は自分の嗜みを教えた。
それ以来、僕は週に一度ほど、彼の店を訪ねては好きなように花を活けるようになった。
益田氏曰く、僕はこの店の専属花屋らしい。


ゆっくりと時間をかけて味わっているうちに、開店の時間が迫ってきた。
カウンターの奥、誰もわからないぐらい小さな神棚に向かって益田氏は、今日も拍手(かしわ手)を打つ。
いつになく長い祈りを捧げているように見えて、僕は少し緊張する。
もう帰らないと。そう身支度を済ませて席をたつと、彼と視線があう。「じゃあ、また」と会釈をすると、
彼はうんうんと頷いた。
「いいよね、守村くん。今日の花」
「ありがとうございます。シロバナタンポポって言います」
「ああ、久しぶりに見た気がする」
「今では殆ど見かけませんからね」
「うん。ずっと前、中央公園の噴水あたりで一株だけ咲いてるのを見たんだよな。
ちなみに、その場所を教えてくれたのが、今から見えるお客さんでさ。
いつもは難しい政(まつりごと)ばっかりやってるんだけどさ、全然向いていない人でね。
君みたいに純粋に植物を愛でていれば、それだけで幸せな人でさ。
随分お疲れみたいだから、君の一輪で随分慰みになるよ」
「はあ…」

もっと話を聞きたかったけれど、僕はそこで店を出た。何となくすぐにでもここを立ち去ったほうが良いような気がしたのだ。

僕の直感は当たっていたようだ。
店の前には黒塗りの車が待機していた。窓は分厚いカーテンで覆われ、主の顔は何もわからない。
どんな政をしているのか少し気になったけれど、僕はこれ以上関わらないことに決めた。
花が好きだった。それだけで良いと思うのだ。
「新聞に載るような人なのかな…」
夜道を歩きながら、僕はぽつりと呟いた。

 


fin
千秋楽絵チャで、さつきさんが描いて下さった素敵な絵に、この話を添えて。

「アオサさんから、お餅もらったよ」

そう言って、マスターさんは小さな包みを大事そうにカウンターの上に置いた。
アオサさん?ああ、アオサさんかあ。一瞬、頭の中で”アオサさんとは”と、確認してみる。
そうだそうだ、マスターさんと仲良しのアオサさん。いつも浜辺でアオサをとっている御婦人だ。
「アオサさん…久しぶりに会えたんですね」
包みの隣に置いた盆と珈琲カップをシンクの中に入れる。
アオサさんが「出前」を注文した時にしか出さない一客の茶器。
当時はきっと縁取りにきれいな鍍金が施されていたと思う、その古いカップを、私は注意深く洗う。
「うん…。最近少し体を悪くされてたからね」
マスターさんは控えめに答える。
夏の間、ほぼ毎日のようにアオサさんからの「出前」が入ったのに、秋になるとぱたりと注文は途絶えた。
こんなことは初めてだと、マスターさんは暫く海のほうを眺めていた。
もしかしたら遅ればせの夏バテかもしれない。また直に電話が鳴るだろう。
そう思ってみたのだけど、アオサさんは来なかった。
次第に海はどんよりと暗くなり、少しでも足をつけていられないほど冷たくなっていく。
誰もがアオサさんの事を口にしなくなった矢先の事だった。

「じゃあ、お体は良くなったのですね」
ほっとした気持ちになる。洗い終えた茶器を乾燥箱の中に入れていると、マスターはカウンター席に腰を下ろした。
「うん、良くなった」
「そうなんですね。良かった!」
カウンター越しに、マスターさんと目が合う。

cofee002.jpg




















だけど冬の海のように暗いまなざしに、思わずマスターの顔を覗き込んだ。
「どう…したんですか?」
アオサさん、お体良くなったんでしょ。良い事なのに、どうして浮かない顔をしてるんです?
火にかけていたケトルの口から湯が静かに吹いている。
火を止めると、私は引き出しから小さな茶缶を出した。
茶さじに一杯の粉を湯のみ茶碗に入れ、すぐに湯を注ぐ。
何も言わずに差し出すと、マスターさんも黙って茶碗に口をつける。
「昆布茶だね…。美味しいよ」
ようやく、マスターさんに笑顔が戻った。

 

 

お店を昼過ぎに切り上げると、私は海に向った。
雲り空の下、海は黒くうねっていた。
波間に三角の烏帽子(えぼし)の形をした岩が突き出ていないかと、探してみる。
その場所は、夏休みの最後の日、佐伯くんがサザエを探しに潜ったポイント。
結局サザエは見つからなかったけれど、代わりに小さな巻貝を見つけてくれた。
貝を手のひらにのせてくれた時の彼の表情がとても優しくて、思わず胸が高鳴った。
それは一瞬の出来事だったけれど、時々こうして海を眺めに行くのは、
あの時の優しい思い出を振り返りたくなるからだ。
「さっむーい!」
烏帽子岩はすぐに見つかった。だけど、人が踏み込む余地はどこにも無かった。
岩を砕くかと思うほどの荒波が絶え間なく寄せてくる。泳ぎが得意な佐伯くんでも、近づくのは無理だと思う。
吹きすさぶ潮風に体が震えてくる。思わずはめていた手袋で頬を押さえて、目をぎゅっと瞑ってみる。
今度目を開けたら、目の前には夏の海が広がっていて、
佐伯くんが私の為に貝を探しに海に潜っていると良い。
そんなことを念じながらゆっくりと目をあけてみる。耳元でひゅうひゅうと海鳴りが聞こえた。
「さむい」
何だか哀しくなって思わず口にしてしまった時だった。後ろのほうで誰かの気配を感じた。

「ったり前だろ」
振り返ると、佐伯くんがそこにいた。黒いベンチコートを羽織った佐伯くんは、細長のペンギンみたいだった。
「ったく、馬鹿みたいに突っ立ってない」
相変わらず口は悪いけれど、佐伯くんは優しい。急いでコートを脱ぐと私の腕をつかんだ。
「佐伯くんが風邪ひいちゃう」
「悪いけど、俺は引かないから。って、なにが悪いのか自分で言ってて良くわかんないけど、
とにかく俺のことは心配するな」
「うん…」
キルティングの裏地がふわりを私を包む。まるで子どもに着せるかのように、ボタンまでかけてくれる。
「餅焼いて食べるってマスターが言うから呼びに来たんだけどさ」
「餅って、アオサさんの?」
「アオサさん?って、言ってたかなあ…。あ、そんな事言ってたような気がする」
「お餅食べるために探しに来てくれたの?」
「うん?まあ、そんなとこ」
背を屈めて、首元のボタンをかけてくれる。
勇気を振り絞れば、そのまま彼の背中を抱きしめることが出来るのに、ずっと直立したままだ。
「あっ、思い出した。確かその人さ、今度どこか引っ越すって言ってた」
「えっ?引越しちゃうの?!」
私の驚いた声に佐伯くんは顔をあげた。
そのとき初めて、わたし達が近づきすぎている事に気づいた様だ。
咳払いを一つすると、佐伯くんは私から一歩離れた。
「そっか…」
だからマスターさんは元気が無かったんだ。
アオサさんの所へ珈琲を届けに行く時、マスターさんはどこかそわそわしていた。
マスターさんにとって、アオサさんは大切なお客さんでもあり、友達であったと思う。
マスターさんの事を思うと、とても切ない。
「オマエが凹むことじゃないよ。永久にお別れってわけじゃないんだし」
佐伯くんは労わるような眼差しを私にむけてくれる。
「うん」
「また暖かくなったら、海を見にくるんじゃないの」
「うん」
潮風でぐしゃぐしゃになった私の髪に触れると、佐伯くんは更に手櫛でぐしゃぐしゃにした。
「ひどーい」
「ほら、店に戻るぞ」

素っ気無い声。だけど、佐伯くんはいつも優しい。
寒そうに背を丸める彼の後を、私は小走りでついて行った。









FIN






「アオサさん」は、『浜辺の人』と言う短編の中に出てきた御婦人。
御婦人と言っても結構な年配の方で、総一郎さんと恋愛の対象にはならないと思います。
夏の珊瑚礁の話に続いて、冬の珊瑚礁の話として書いてみました。









 

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