「氷上くん!もうすぐ誕生日だね」
まあるいお月様に向かって話しかけると、「はは」と氷上くんは笑った。
その笑い声が、少し照れたように聞こえた。
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電話が鳴った。
受話器を取って、「もしもし」と返事をしたら、「私だ」と“せんせぇ”の声が聞こえてくる。
「せんせぇ、今何処から電話をかけてるんです?」
そう言えば、大学のレポートがなかなか上手い事まとめられなくて困ってるんですよぉ。
テーブルの上に乗った焼き茄子を箸でつつきながら、私は少しだけ甘い声で話した。
「何処からと言うと…まあ、出先だ」
「あ、じゃあ学校じゃあ無いんですね」
「そうだ」
その時、受話器の向こうから「どおん」と花火の音がした。
「あっ、今、どぉんって」
テレビのボリュームを小さくして窓を開けると、海の方から花火の音が聞こえてきた。
そうだ、今日は花火大会だったっけ。
「ああ、せんせぇ、ひょっとして校外指導とか?」
「まあ、そんなところだ」
「そうなんですかぁ」
これはこれはどうもおつかれさまですと、可笑しな返事をしていると、せんせぇは「はは」と少し笑った。
そして少しの間、せんせぇは沈黙した。
「氷室せんせぇ?」
私に向けられる家族中の視線を「しっしっ」と手で払いながら、私はゆっくりと聞き返した。
「どうしちゃったんですかぁ?」
また、生徒が何かしてるんですか?あんまり厳しくしても聞かないですよぉ。
こういう時ぐらい、羽目を外させてやってもいいんじゃないんですかあ?
およそこんな事を堂々とせんせぇに言えるのは私だけぐらいだろうなあと思っていると、「美雨」とせんせぇの声が聞こえた。
「はい?」
「ああ…その…」
「なんですか?」
声が少し切なそうに聞こえる。箸を置いて、両手で受話器を握り締めると、私は次の言葉を待った。
「今から…出てこないか」
「今からって…」
さっきからちょっかいを出してくる弟のすねを足で思いっきり蹴ると、「あう!」と大きな声が響いた。
「その、今から花火でも一緒に…って、何か大きな音が聞こえてきたが」
「何でもありません!何でも」
涙目になっている弟の顔に思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、私はぶんぶんと首を振った。
「そうか……。それで、君は、どう思う?」
「はい!是非!喜んで!」
どこかの居酒屋の兄ちゃんみたいに威勢良く返事をすると、せんせぇはくすくすと笑った。
そして5分後に君を迎えに行くと言って電話は切れた。
焼き茄子を一口で頬張ると、私は日頃滅多に入らない和室へ向った。
まだ袖を通さずに鴨居にかけたままになっている浴衣の袖を引っ張ると、私は素肌の上にそれを着た。
糊がぴんと張った木綿生地は、陽に焼けた私の肌を少しだけ引っかく。
帯はどう結ぼう。「文庫」がいいか、「蝶」にしようか。
いつかせんせぇに誘ってもらえるまで、こっそりと練習した着付けの腕前を急に披露する事になって、心が舞い上がる。
ああ上手くいかないやと、帯紐をしゅるりと解く。
すぐ近くで「どぉん」と、音がした。
FIN
(後書き)…卒業後の初めての夏祭り。
せんせぇは美雨(主人公の名前です)を連れて花火が見える海岸へ。
二人っきりで花火を見るのさ~。うふふ~。
拍手のところにおいておいた小噺です。挿絵が見えないと以前から報告を頂いてまして、
今日引き上げてきました。
変わりに、違う話をもってきましたので、また気が向いた時にでもどうぞ~。
極楽鳥の様に艶やかな衣装を身にまとって、明るい表通りを闊歩するあの人は、
いつも道行く人の好奇の眼差しを一杯に受けていた。
普通なら怯んだり怖気つくところを、あの人は極上の笑みを持って全てを受け止めていた。
「小悪魔ちゃん、いい?大事なのは自分をよく知るって事よ。
人からどう見られようと、どう思われようと、私はわたし。
それが分かっていれば、何も怖い事は無い。そう、何もね…」
それまであの人の事を見た目や行動の奇抜さだけにとらわれて、
特別な物でも見るように思っていた私は、
その一言で思いが変わった。
あの人の気高さに触れるたびに、私は憧れていった。
「ゴローさん」
「なに」
「今日は月が蒼いですね」
「そうね」
月に照らされて地面に落ちたあの人の影は、昼間に見るものとは随分違うと思う。
体中から張り詰めていた気が、夜の冷気の中で緩んでいるような…少しだけ儚げに感じてしまう。
「お酒は美味しかったですか」
「そうね、今日のモルトは何時になく香りに深みを感じたわ。ベルベットみたいな深い紅のね。
そういえば、アンタ。どうして店の中に入ってこなかったの?お酒の一杯ぐらい、ご馳走したのに」
何となく入らない方が良いと思って。
そう素直に伝えると、あの人は「ふうん」と相槌を打った。
そして暫く黙ったまま、私たちは歩いた。
あの人の家は店から10分程の距離にあった。
30年前は遊郭だった一軒家を改築した、モダンな造りの家だ。
当時窓に使われていた色ガラスや赤い絨毯はそのままにして、
部屋の中は彼の心眼に叶った調度品がさりげなく置かれてる。
オフィスとして使用しているビルの他に、国内に数箇所別荘を所有しているけど、
この場所については殆ど誰にも知らせていないのだと、あの人は言っていた。
「ここを知っているのは、アンタともう一人。
昔からの友達なんだけど、最近は向こうも色々と忙しくてね」
はじめてここを訪れた時、とても香の良い紅茶を出してくれた。
そして取り留めの無い話をしたあと、帰りに綺麗なブローチをお土産にくれた。
それ以来、時々あの人は私をここへ招いてくれる。
美味しい紅茶と、クッキー。極上の洒落た会話。そして素敵なお土産。
ここで貞操を失う危機感は皆無に等しい。
玄関の鍵をあけて、がらがらと引き戸をあけると、中から猫が主人の帰りを出迎えに来た。
「おお、モンタン。良い子にしてたわね」
抱き上げて喉元を撫でさすると、猫は嬉しそうに喉を鳴らす。
靴を履いたまま二階へ続く階段を上がっていくと、あの人は部屋に入るなりベッドに突っ伏した。
「はあー、飲みすぎたわ」
「酔いました?」
「そうね、結構酔ったわ」
ベッドからはみ出している足元に近づくと、まだ履いたままのサンダルを脱がせた。
特注であつらえた物だろう。私にくれた物と同じデザインなのに、その足の大きさでかなりごつく見える。
「あ、そこ!」
何気なく触れた足裏に、あの人は声をあげた。
「もっと押して頂戴」
言われたとおりに土踏まずの辺りを強く押すと、あの人はよがった様な声をあげた。
「ゴローさん」
サンダルを脱いで、私もベッドの上に上がった。
横たわるとなかなかの大男で、キングサイズのベットでも狭く見える。
あいたところを見つけて正座すると、それまで目を瞑っていたあの人がそっと薄目を開けた。
「小悪魔ちゃん」
「はい、ゴローさん」
「女の子が自分から男の寝床に上がりこむなんて」
「はしたない…ですか?」
「そうね」
そう言いながら、腕を伸ばして私を引っ張った。されるまま、私はあの人の隣に寝そべった。
「コートぐらい脱ぎなさい」
小言を続けながらも、あの人は私のコートのボタンを外した。
そして中に着ていたシフォンのワンピースのファスナーの手をかけた。
「ゴローさん」
さすがに恥ずかしくなって、私は少しだけ抵抗した。
服を脱いで下着だけになったとしても、きっとあの人は私と体を交える事は無いと思う。
「ぼんそわーる」
すっかり余裕を失った私を面白がるかの様に、あの人は私の服を剥いでいく。
そして震える私の体をきゅっと包み込むと、あの人は私の耳元に囁いた。
「さあ、答えて頂戴。あのとき流れていた曲の名前は?」
組し抱くあの人の、体の重さが心地良い。私はうっとりと目を閉じた。
FIN
あとがき…花椿さんと子悪魔ちゃん。二人は仲良し。
でも、二人は心は通っても体を交わすことは出来ないのね。
小悪魔ちゃんはゴローさんに対して次第に異性として惹かれていくんだけど、
ゴローさんは彼女を一人の人間として愛情を注ぐ。だから結ばれる事は無いのね。
小悪魔ちゃんがビジネスで成功していくまで、ずっと応援していくんだ。
成功して、二人が離れた後もゴローさんは応援していくんだな。
小悪魔ちゃんは、フランスの有名なシャンソン歌手、エディットピアフみたいな雰囲気の子だと良いな。
なーんて、ゴローちゃんネタで色々妄想が広がります。
さて、「益田祭り」。土曜日、一人で悶々とあーでもないこーでもないと、HTMLをなぶっていたら
3年前の祭りの時に手伝ってくれたあの人が「しょうがないねー」と腰をあげてくれました。
あ、ここでいうあの人とは家人でございます。前のサイトの時は色々手伝ってもらってまして、
今のサイトは「もう、やんないよー」と言ってたのですが、
「これから毎日アイスを食べさせてあげる」の言葉にひっかかりました。
やたっ。一緒にがんばってもらおうじゃないか。
と、ここに書いた以上、がんばってもらうぞー。
ちなみに、益田祭りは3年前にやった時は「ジャズフェス」でした。
今年はもっと自由に。5月12日からはじめようかなと思ってます。
また、告知サイトも作ろうと思いますので、良かったら御参加ください。(絵でも、テキストでも)
GS2が盛り上がっている中、ちょっと流れから外してると思いますが、やっぱ益田さん好きなんですよー。
では拍手のお礼です。(続はこちら、からどーぞ)
……うん?ああ、知らないわね、そうよね。
だってこの曲あなたが生まれる前に流行った曲だから…知らなくて当然よ。
……明日は早いわ。ううん、もう明日がやってくるのね。
アタシはもう寝るわ。アンタも眠るのよ。お休み」
寝る前に留守電を確認したら、あの人の声が聞こえた。きっとどこかでお酒を飲んでいるのか
あの人の声はいつになく低く、言葉と言葉の間に小さなため息がノイズに混じって聞こえた。
「アンタも眠るのよ」
と、言われたけれど、私は眠りたいとは思わなかった。
すぐに壁にかかったままのスプリングコートを羽織って、私はあの人に会いに行った。
夜も更けた歓楽街にタクシーを止めると、私は暫く辺りをうろついた。
甲の部分に綺麗な蝶のモチーフがついたサンダルは、私がステップを踏むたびに静かに足元が光る。
「-------昼よりも、夜のほうがきれいなの。良かったら、アンタ、履いてみて」
そういって、あの人が私の素足に触れた事を思い出す。
手入れされた指がそっと私のふくらはぎの部分を「つつ」と撫でただけなのに、私の体は心地よさに震えた。
だけど私は何も無かったような顔をして、あの人からそのサンダルを受け取った。
手に入れてから季節は一つ移って、ようやく素足に履ける時期がやってきた。
夏日を思わせる日中とは対照的な程、夜は酷く冷えている。
爪先に冷気が伝わり、次第に私の体は芯から冷えていった。
たぶん、ここであの人は飲んでいるのだろう。
街角の小さなパブ。ここで古いシャンソンを聴きながらお酒を飲むのが好きだと聞いた事がある。
硬い樫の木で作られた扉の前で、私は暫く待った。
自分から扉を開ける事は造作無いことなのに、今日は外で待っていた方が良い様な気がした。
店に背を向けて、空を見上げる。常夜灯に集まる羽虫の行方を見ていたら後ろから扉が開く音が聞こえた。
「あら」
店から出てきたのはあの人だった。
きっと沢山お酒を飲んだのだろう。
少しおぼつかない足取りで、それでも扉を丁寧に閉めると、私のほうへ数歩近づいてきた。
「ぼんそわーる」
およそフランス語には聞こえない発音で、あの人は私に挨拶をする。
「ぼんそわーる」
私も挨拶を返す。
朧月に照らされたあの人の表情がいつになく繊細で、思わず手を取った。
「美味しかったですか?今日のお酒は」
「そうね」
重なった手に、あの人のぬくもりを感じる。
「良かったわよ」
そう言いながら、もう歩き始めていた。
「どうして、ここだと思ったの」
「どうしてって、電話の向こうにシャンソンが流れてたから」
「そう。それで、曲名は分かったの?」
「はい」
「NON!待って」
少し強い口調でそう言うと、あの人は人差し指を私の唇にあてた。
「まだここで言ってはいけないわ」
「……」
「私のアパート(個室)に来ない?そこで聞かせて頂戴」
「……」
「いい?」
私の唇を指でなぞると、あの人はじっと私を見つめた。されるまま、私は頷く。
さ、急ぐわよ。夜は冷えるわ。
あの人は私のコートの襟を直すと、手を取って歩き始める。
あの人の歩幅に合わせようと、私は少し小走りになった。
あとがき…少し前になりますが、56バナを貼りました。カンナさんが「花椿さんスキスキー」の気持ちを素敵なバナーで作って下さったので、早速バナーをお借りしております。
今回は、おいらの花椿さんスキスキな気持ちを小噺にしてます。明日も書きます。明日で終わりかな。
よかったら続きにお付き合いください。
GS小話 button (尽)
家を出ようとした時、玄関先の壁掛けカレンダーに眼を留めた。
朝から良く晴れているみたいだけど、狭い玄関の中はとても薄暗い。
おかげで日付を確かめたくても、何となく見えづらい。
一歩踏み出して眼を近づけると、後ろから「大安」と声がかかった。
「大安かあ、いいなあ」
あたしのときは仏滅だったよ。背中越しに聞こえるその声が、ちょっと嬉しそうだ。
振り返ると姉さんが、顔中に笑みを浮かべて立っていた。
「忘れ物はなーい?」
うんと背伸びして、頭のてっぺんから爪先まで目線を動かす。
そして今度はゆっくりと目線を上にあげる。
最後に胸ポケットを指して、姉さんは「ハンカチは?」とたずねた。
「いらね」
「えっ?いるよ絶対」
大きな眼がくるりと動く。
「いらないって」
つっけんどんにつき返すと、姉さんは「ええー」と顔をしかめた。
「泣いちゃうよ」
最後に声を潜めて、こう付け足した。昔から尽は泣き虫だったでしょ、と。
姉さんの声を聞こえないふりして、俺は玄関の戸を開いた。
それまで薄暗かった空間に、山吹色の光が一気にさしこんでくる。思わず目を細めた。
たぶん、同時に花粉も入れ込んだのだろう。戸を閉めると同時に、姉さんは派手にくしゃみをした。
今日は大安。偶然、自分の卒業式は吉日と出たが、そんな事はどうだっていい。
朝から沢山の、それも退屈な祝辞を長々と頂戴する。型どおりの行事をどうにか早く済ませたかった。
とにかく卒業したい。
お辞儀も拍手をするタイミングも全て外して、パイプ椅子の上でじっと座り続けた一時間半。
最後に退場の号令がかかった時も、俺は人より数秒遅く立ち上がった。
整列して講堂を出ると、俺はやっと終わったと背伸びをした。
卒業だからと言って涙は出なかった。特別に感傷にも浸らなかった。
代わりに、数人の女の子が俺の為に泣いてくれた。
卒業するまでそんなに話をした事も無いのに、ある子は顔をくしゃくしゃにして泣いた。
他には初めて会う下級生の子からも、泣かれた。
まわりの奴等はそれを見て面白がっていたけど、俺は正直迷惑だった。
俺に何を想って、そんなに泣けるんだろう。
たぶん、好きとかそういう気持ちがあったのかもしれないけど、
これといった想い出も無いのに、いきなり感情をぶつけられてもどう対応したらいいのか分からない。
教室で担任から最後の挨拶を聞いた後、俺はすぐに学校を出た。
校門を出てから、一度も振り返ることは無かった。
ただ、いつもの下校とは違って手荷物がやたらと軽いのは少し違和感を感じた。
参考書をぎゅうぎゅうに詰めた鞄の変わりに、証書が入った長筒が一つ。
それは中学から高校へのバトンだと思う。そう思うと、急に重みを感じる。
高校で上手くやっていけるのだろうか。今より、少しは自分に自信が持てるのだろうか。
漠然とした不安に、ずんと気が沈みそうになる。
少しでも気を晴らそうと空を見上げた時だった。「尽」と聞き慣れた声が聞こえて、俺は立ち止まった。
数時間前に玄関先で別れた姉さんが、坂の途中で軽く手を振っていた。
緩やかな下り坂の向こうには、海が見えた。
遠くからでも、水面に春の陽射しが当たってきらきらと輝いているのが見える。
小走りに俺の所まで駆け寄ると、姉さんは「おかえり」と声をかけた。
「早かったね」
走ったせいで、姉さんは少し息苦しそうだった。
ここへ来るまでにコンビニに寄ったのか、ペットボトルが入ったビニール袋を提げていた。
「飲む?」
こっちは炭酸で、こっちはお茶だけど。両方を手にして、姉さんはにこりと笑った。
「ああ」
ひょいと炭酸の方を取ると、「あっ」と姉さんは声をあげた。
たぶん、姉さんもそっちの方が飲みたかったのだろう。
構うことなく先に口をつけると、姉さんはぷいと顔を横に反らした。
「何で来るんだよ」
知ってるやつに見られたくないんだよ。嫌々そうに言ったものの、大した反応は返ってこなかった。
「そっちだって、何か用事があるんだろ?」
春休みになって暇だからって、来るんじゃねえっつーの。心の中で毒づくと、俺は歩くのを早めた。
「だってさ、今日はお祝いだよ。尽が中学を無事に卒業できたんだよ。
記念に写真でも撮ってあげようと思ってきたのに…」
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないよー」
のんびりとした口調で反論すると、姉さんはひょいと手を伸ばして長筒を取り上げた。
「姉ちゃん!」
今にもここで証書を取り出すのではと心配になる。
人前で中身を読み上げられたりでもしたら最悪だ。
案の定、「ぽん!」と勢い良く筒の蓋が開く音が聞こえた。
「返せ」
きっと睨みつけると、向こうも俺の顔を睨みつけた。負けずに睨み返すと、姉さんは「はあ」とため息をついた。
「尽」
蓋をきちんとしまうと、姉さんは長筒を返した。
「お姉ちゃん、海、行きたいな」
「はあ?」
「ねっ、お家帰る前に、一緒に海見に行こ?」
海なんか一人で勝手に行け。そう言おうと思った。
だけど、俺を見る姉さんの眼が何だか凄く寂しそうに見えて、何も言えなくなってしまった。
代わりに俺は、海岸に出る近道を先に歩き始めた。姉さんは黙って後をついてきた。
遠くからは穏やかに見えた海は、近づいてみると波が少し荒れていた。
その波間の水面をすれすれに、鴎が数羽飛んでいる。
鴎が飛ぶ先の沖合いには、貨物船がゆっくりと通過していくのが見えた。
「冷たいかな」
引いていく波に駆け寄り、手を伸ばす。少しも待たないうちに、波が寄せていく。
「きゃっ」
指先だけを濡らすつもりでいたのに、波の方が速かった。
足元までしっかりと濡らして、姉さんは「冷たーい」と顔をしかめた。
「当たり前だよ」
相変わらず、ドジだな。呆れる思いでそう返すと、姉さんは「えへへ」と笑った。
「尽とここに来るのって、何年ぶりかな?3年?5年かな」
姉さんは話を続けた。
「この町に越してくる前は、海なんて行った事が無かったもんね。
はじめてここに来た時なんか、尽、凄くはしゃいでたよね」
昔のことを思い出したのか、姉さんは一人で笑った。
「覚えてないよ」
「そう?覚えてないんだ。ふーん」
一瞬だけ悲しそうな顔をしたものの、姉さんはすぐに穏やかな表情になった。
「小さい時のことなんか…忘れちゃう…よね」
波の音に消えてしまうぐらいの小さな声だったのに、心にずしんと響いた。
朝からずっと反抗している自分が、子供みたいで嫌だなと思った。
「今日のことは忘れないよ」
姉さんの隣に並んで腰を下ろす。潮風でかじかんだ指先を砂浜で温める。
「うん。私も忘れない」
海を見つめたまま、姉さんはそう答えた。
中学の…いつぐらいだったか。急に、全てのことに対して投げやりな気持ちになった。
何が原因だったのか、自分でもよく分からない。
気がついたら、所属していたクラブを辞めて、学校に帰ると毎日部屋に閉じこもっていた。
誰に対しても不満を感じて、あまり関わりたく無かった。
本当は進学もしたくないと思った時期もあったけれど、何とか受験して、運良く志望校に受かっていた。
少し気持ちが晴れてきたのは、数日前からだ。
たぶん、今の自分に卒業できるかもしれないと思ったからだと思う。
「俺さ、高校に行ったら、またクラブ入るよ」
「ほんと?!」
それまで海を見ていた姉さんは、驚いた顔で俺の顔を見つめた。
「ああ。まだどのクラブにするか決めてないけど」
「じゃ、野球部なんかどう?結構強いよ」
「今から野球なんて始めても、もう遅い」
「じゃ、吹奏楽部とか」
「全然趣味じゃない」
「じゃあ」
「自分で決めるって!」
思わず強い口調で言い返すと、姉ちゃんは黙った。そして少し間を置いた後、「ごめん」と呟いた。
「別に…姉ちゃんが謝ることじゃないよ」
気まずい沈黙が流れる。そろそろここを出ようかと、立ち上がろうとした時だった。
ぐすっと鼻をすする音が聞こえた。いつの間にか、姉さんの眼から涙が溢れていた。
「どうして泣いちゃうのかなあ」
そう言いながら、俺は内心酷く動揺していた。
姉さんを、それも6つも年の離れた人を泣かしたのは生まれてはじめでだった。
姉さんの言うとおり、子供のときは泣き虫だった。
ささいな事ですぐに泣いて、その度に姉さんに宥められた。
少し前に学校で、自分の前で泣いていた子達の顔を思い出し、今更になって胸が痛んだ。
「あのさ」
なかなか涙が止まらない姉さんが、自分より幼く見えた。
海を背にして向き合うと、俺は姉さんの肩に触れた。
「もう、泣かないで」
これからは、一人で頑張っていけるよ。大丈夫だから、そんなに心配しないで。
なるべく優しく、肩を撫でてみる。姉さんは「うん」と頷いた。
午後を過ぎると、海は更に荒れた。次第に強くなる潮風をまともに受けながら、俺達は浜を出ることにした。
波消しブロックの脇の側道に、姉さんの濡れた靴の足跡が続いた。
「ねえ、尽ぃ」
背中越しに、ちょっと甘えるような姉さんの声。
振り返る事無く、「うん?」と返すと、「あのね」と姉さんは話を始めた。
「今日の事、ずっと良い想い出にしたいな」
「あ?ああ。そうだね」
たぶん二人して、この海を一緒に眺めるなんて事は、もうこの先無い様な気がする。
潮干狩りや海水浴を家族で一緒に楽しむ時間は、子供の頃で卒業した。
それ以外の目的で海に行くのは、連れて行く相手が家族ではなく、それ以外の方がしっくりくると思う。
友達とか、もっと自分が成長したら彼女を作って、一緒に海を見ているのかもしれない。
そう思うと、今二人で歩いているこの時間も、大切な時間なんだろうな。
少し感傷的な気持ちになる。
小さくため息をつきながら歩いていると、狭い側道は自然に車道に繋がっていく。
静かに家に向かって歩いていると、「そうだ!」と姉さんが声をあげた。
「ねっ、尽!」
涙がすっかり乾いたものの、姉さんの眼はまだ赤かった。
「お姉ちゃんにボタン、プレゼントして」
横にぴたりとついて、俺の制服のボタンを指した。
「はっ?!」
「ボタン。尽の、第二ボタンが欲しいの」
卒業式に女の子が、好きな奴の制服のボタンを…それも上から二番目のボタンをもらうと
恋が叶うとか言う噂があるのは薄々知っていた。
事実今日も、数人の女子から「ボタン下さい」って言われたけど、俺は全部断った。
何で好きでもない奴に、あげる必要があるんだ。
まわりはそれで男としての自分の価値が上がるとか言っていたけれど、
俺はそういうのに流されるのが嫌だった。
だけど、姉さんが俺のボタンを欲しがるってどういう事だろう。何で弟の俺なんかのボタンを。
「理由は?」と聞くと姉さんは恥ずかしそうな顔をした。
「尽の卒業記念、ほしいなあって」
だめ?やっぱりだめ?ほしいなあ、ほしいなあ…。
どこでそんなねだり方を覚えてきたのだろう。
潤んだ瞳で、そんなにじっと見つめられたら「いやだ」って言えないじゃないか。
一瞬、相手が姉だと言うことを忘れてしまうほど、俺は内心どきどきしていた。
「しょうがないなあ…」
失くしたら承知しないぞ。そろそろと、二番目のボタンに手をかけてみる。
傾きかけた陽射しをうけて、ほんの一瞬、ボタンはきらりと光った。
FIN
あとがきは、「つづきはこちら」から