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珈琲スタンド・15話 その2

 
 
 
その後老医師は、すぐに店を出て行ってしまった。
自分より遅れて席に着いたのに、ひょっとして気をつかわせてしまったのだろうか。
誰もいなくなった店の中で、空いたばかりの席を見つめると、益田はため息をもらした。
そしてにわかに伸びてきた顎の髭をさらりと撫でていると、店のドアが開いた。湿った生ぬるい風が入り込んでくる。
 
「大丈夫だったわよ、せんせ」
安堵の笑みを浮かべるママに、益田は「何が?」と訊ねた。
「ああ……。よっちゃんは知らない、か」
「知らないも何も」
「せんせぇとこの、奥さん。今日が命日なのよ」
「そっか……」
カウンターの中に潜ると、ママはすぐに煙草を手に取った。
そしてマッチを取り出すと「吸ってもよろしくて」と、横目で許可を求めてくる。
「どうぞ」
すぐにマッチの燃える匂いがした。
奥さんを弔ってからどれだけの月日が流れたのかは知らないが、老医師の気持ちは少なからず感じるものがある。
 
「よっちゃんがいてくれて、良かったわ」
「そうかな」
「そうよ。じゃなきゃ、私だって寂しくなっちゃうもの」
そう言いながらママの眼は既に潤んでいた。
「優しいな、ママは」
すっかり冷めてしまった“福生エッグ”をつつきながら、益田はママを慰める。
「俺がもうちょっと年喰ってたら、ママを女房にしようと思ったのになあ」
「ちょっと!」
よほど照れたのか、いつもの濁声が幾分若い声に戻る。
「よっちゃんがどれだけ年を取っても、アタシの心はなびかないわよ。だって、私の心は……」
「福生で別れた水兵さん。って、言いたいんでしょ」
「そう!そういうこと!…でもねえ」
ぶはあと煙を吐くと、ママは大きく首を振る。
「向こうもさ。きっと家庭を持ってると思うし……アタシとの約束なんて忘れてるよね。
死ぬまでに会えるなんて奇跡は絶対に起こらないわね」
 
最後は殆ど聞き取る事ができないぐらいの呟き。
この店の由来にもなった小さな町、国道16号線沿いの小さなパブで、ママはシャンソンを歌っていたらしい。
どこか垢抜けた印象を感じるのは、昔の想い出がそうさせるのだろう。
 
「それによっちゃんはね。もっと若くて気立ての良い子をお嫁さんにもらわなくちゃ!」
一人でしんみりしていたのを反省したのか、ママの声が急に大きくなった。
俺に構うなと無言を決めると、「ふうーん」とママは唸った。
「ほら、この前の……あれ、あれよ!」
「あれじゃわからん」
ぶっきらぼうに返したが、ママは少しも懲りていない。
「ほら、ここの席に座ってた人!」
益田から2つ右に離れた席をさして、ママは顔中に笑顔を浮かべた。
「……」
「髪がほら、結構長くて、眼鏡かけてて、
すらーっとしてて、大人しいんだけど、芯はしっかりしてそうな感じがしたのよね。
ものすごい美人って感じじゃ無いんだけど、雰囲気が良いのよ。
よっちゃんの隣で静かに飲んでて……良い感じの子だったんだけどなあ」


 
尚もだんまりを決めながら、益田はママが指した席を見つめた。丁度半月前の平日だった。
少しも融通の利かないポンコツ車を乗り回して、
とうとう動かなくなってしまったのを理由に、ここで食事を一緒にした。
一日がかりでまわった場所は、述べ4箇所。港の漁港に、鮮魚の市場。
中学の頃に遊び耽った校舎裏の神社に、一軒だけ残っている駄菓子屋。
神社でおまいりをした後に、二人で引いたお御籤は、自分が末吉で向こうは中吉。
仕事運の所に、波乱有りと意味深なお告げが書かれていて、二人で少し悩んでみた。
悩んでいても仕方がないからと、松の木の枝に結びつけようとしたら、消え入りそうな声でこう言った。
-----待ち人、そばにいると……。
 
「名前は何て言うの?」
「……たいらさん」
「へっ?」
益田が素直に答えたので、ママは目を丸くした。
「たいらさんって、苗字?下の名前?」
「苗字に決まってるじゃん。“はらたいら”じゃ無いんだから」
益田は軽くふてくされた。
「ごめんごめん。じゃあ、下は何て言うの?」
「知らない」
「えっ?」
「しーらーなーいっ」
知らない。のではなく、知りたくないのだ。
知ってしまえば、下の名前で呼んでしまえば、それまで想っていた気持ちが全部彼女に伝わってしまいそうで怖いのだ。
仕事のためと銘打って外に連れ出したまでは良かった。
緊張気味な性格をほぐしてやろうと少しの間だけ手を繋いだら、彼女はもっと黙ってしまった。
怒らせたのではと不安になって、車の中で詫びてみたら、彼女は白い肌を赤く染めて恥かしそうに俯いた。
それだけで、十分満ち足りた気持ちになった。
彼女の事を想っているのは確かだ。しかし今は、自分からどうする事もできない。
 
「この前、ママが俺の事探りを入れたじゃん」
「探りって」
「環境土木課の佐々木」
「ああ、佐々木さんが話してたアレね。よっちゃんが直々仕事を依頼したのが女の人だって話。って、えっ?」
「……」
「じゃあ、依頼した相手って……」
ママは驚きで声を失っていた。そしてもう1本煙草に灯をつけようとしたが、それは寸での所で自重した。
肺に陰りがあることを先日医者から言い渡されたばかりだ。
「はじめから、あの子の事分かってて仕事を頼んだの?」
急須から茶を注ぐと、ママはずびりと音をたてて番茶を口に含んだ。
「いや。分かっては、いない。半分賭けだった」
 
数ヶ月前の春の夜。あの日突然、たいらは益田の前に現れた。
それも酷い泥酔で、相手が誰かと確認する間も無く、益田はたいらを保護してしまった。
昔、想いを抱いていた女の面影と良く似ていたこと。保護した理由は、ただそれだけだ。
幸い、軽い嘔吐を繰り返しただけで、彼女の容態は安定した。
 
ただし、もしも急変する様な事があってはならないと、この時になってはじめて益田は彼女の身元を調べた。
新しく仕事の環境を変えたばかりなのか、それとも普段から持ち歩かない性格なのか、保険証も運転免許証も無い。
鞄の中から唯一情報を得れたのは、B4ほどの大きさの製図帳とクロッキー帳。
ラフな状態ではあるが、書上げたばかりの花の絵に益田は心を奪われた。
どこか大手の花屋からの発注であろう。グリーティングカードとしてデザインされた花のカットは数点。
写実的ではなく、極少ない線で花の特徴を品良く捉えている。
水墨画の様なとか、ミュシャの様なとか、そんな例えるものは浮かばなかった。
これが彼女の個性なのだと思った。
さほど若くは無い雰囲気からして、自分の良さを上手く売ることができない様子も、
観察眼の鋭い益田には容易に察する事ができた。
しかし、分かったのはそれだけだ。
製図帳に印刷されたデザイン事務所の名前と、クロッキー帳に走り書きした小さなサイン。
前々から計画が上がっていた都市再生計画の一端に、彼女の才能を試してみたいと実行したのだ。
 
「…だから、彼女とは特別な仲になっちゃいけないんですよ。
依頼主と、依頼された者が直接関わるのも、あまり好ましくない。
金銭のやりとりが無いとしても、これが公に出てしまうと……ねっ?」
出された番茶をすすると、益田は「ははっ」と笑った。
「でもさ、でも……」
湯飲みを両手で包むと、ママは小さく首を振った。
「いいんです。ママは気にしないで」
つとめて優しい口調を心がけた。もう、この話はこれでおしまい。
それ以上、ママが何も言えなくなってしまったのを合図に、益田は席を立った。
清算書に書かれた金額より気持ち大目に出していくと、益田はスーツに袖を通した。
 
「お釣りは良いからね。今日も美味しかったよ」
カウンターから出てきたママが、益田のネクタイを結びなおす。
商工会のトップとして、役所に通い詰めて今日が三日目。
明日はいよいよ、刷り上ったパンフレットの審査を行う事になる。
もしかすると、明日は“取引先”も顔をそろえてくるだろう……。
「いつも粋に着こなしてるけど、ネクタイを結ぶのだけは下手なのねえ」
染みの浮かんだ手でぎゅっと根元を結ぶと、ママは小さく笑った。
「いいんだよ。ママに結んでもらえば、それで済むんだから」
「こんな皺くちゃの婆あに結んでもらうんじゃなくて」
 
あの子に結んでもらいなさい。
そう言いたいのを必死で堪えると、ママは益田の頬を思いっきりつねった。
 
 




 
 
15話終り。
 


 
さあ、だんだん話の核心に迫ってきた感じです。
“福生のママ”は、この話の中で、結構重要な人だったりします。
以前、「どうして、氷室はこの話に出さないのですか?」と
いった問い合わせを頂いたのですが、氷室先生と益田が話しをするとなると、
どうしても自分とこの店(カンタループ)で話をすることになってしまう。
そうすると、二人をかっこよく書こうとしちゃうので、話の筋がぼやけてしまうんですね。
生きるのが下手なたいらと本当の恋をするのなら、益田もかっこいいだけじゃ駄目だな…と。
この不景気な状況で、しぶとく水商売を成り立たせている男は、どんな人と関わりをしているのか。
お店では知ることのできない、彼の姿を書いてみようと思って、福生のママのお店が登場したわけです。
ちなみに、氷室先生は、物語の終盤には顔を出しますよー。
 
 


 
 
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飴色のカウンターには小鉢が2つ。今朝揚がったばかりのサザエを煮たものと、手製のイカの塩辛。
楊枝でくるりとねじの巻いた方に殻を回すと、「つるっ」と音がするようにサザエの実がむき出しになる。
「見てみて、全部きれいに出たって!」
実を上手く出せたことに満足して、目の高さまでサザエを持ち上げてみる。
益田の御満悦につきあう者は誰もいない。ぶすっと子どもの様にふてくされると、
益田はさざえを口の中にほうりこんだ。
程よい弾力と磯の香が口中に広がり、すぐに機嫌は回復する。
さざえを味わいつつも、隣の塩辛に箸先を進めようとした時だ。カウンターの向こうから「よっちゃん」と声が聞こえた。
 
「水割りにする?ロックでいく?」
「うーん。ロックで」
返事の変わりに鼻歌が聞こえてくる。人が一人入るのがやっとなぐらいの狭い向こうで、しゃりしゃりと音がする。
氷を丹念に丸く削ぐのはママの十八番だ。
小さな木桶に溜めた氷の塊は、2丁離れた氷屋からわざわざ取り寄せた物。
「岡田屋の爺ちゃん、元気?」
氷屋の主はかなりの高齢ときている。益田が子どもの頃には既に「岡じい」と近所の子ども等から呼ばれていた。
「うーん……。まあまあって、とこかな?」
「まあまあって?」
「いつもね、店の前にデイケアの車が止まってんの。お嫁さんが付き添ってね」
「ふーん」
「それでも一切、氷はなぶらせないって言うから」
「そこが職人気質だよね」
「そうね」
 
顔を上げてまわりを見渡すと、カウンター席の隅に老人が一人、ちびちびとやっている。
週の半ばは特に客の入りが少ない。
ひょいと腕を伸ばすと、益田は自分の隣に置かれたカセットラジオのつまみに触れてみる。
少し左にねじっただけで、急に音が大きくなる。店内に八代亜紀の「舟歌」が響き渡った。
「ちょっと」
「んあ?ごめんごめん」
「お隣さんに叱られちゃうじゃない」
目を吊り上げてママが怒る。ついでに、「こん」とグラスが置かれていく。
「いいじゃん、隣だってカラオケで煩いし」
薄い壁を通した向こうから、若い連中の馬鹿騒ぎの様子が筒抜けだ。
隣の壁にむかって、べえと舌を出すと益田は奥で飲んでいる老人に笑いかける。
こくこくと、老人も黙って賛同した。
「ほらあ、あそこの渋いジェントルマンも言ってることだし」
「安井先生に変な口の利き方をしないの」
「へっ」
安井と名前を聞くなり、益田の顔色が変わった。
安井先生と言えば、子どもの頃にはしょちゅうお世話になっていた所だ。
いつの間に、あんなにしょぼくれてしまって……と、自分事の様に凹む。
そういう自分も、いつの間にか年を重ねてしまったものだ。
「どこかで見た顔だなと思っていたら、酒屋さんとこの……」
「彰人(あきひと)の倅です」
実家を言い当てられて、益田はすこぶる恐縮した。
「ああ、大きくなったもんだねえ」
翁の様な白髪の老人は、そこではじめて益田の顔をじっくりと眺めた。
 
「ああー、いやー……図体ばかりで、中身はこのとおり何にも」
少6の夏に盲腸で世話になった事を思い出して、嫌な汗が吹き出してきた。
丁度、「下の毛」が生えてきたばかりの頃だったが、手術の際は必ず剃られると脅かされた。
診察の時にいた看護婦に剃られるかと思うと、どうしようもなく恥かしくなってしまい、
手術の前日に実家の蔵に隠れてしまったのだ。
あの後、親父に摘み出されて手術を受けたものの、そのあとどうなったのかは覚えていない。
麻酔が覚めた後に恐る恐る調べてみたら、10円禿げの様にそこだけきれいに削がれていた。
誰が削いだのか考えるのも怖くて、あれ以来この病院を避けるようになったのだ。
 
「ふっふ。この界隈では評判になってるよ。アンタの事は」
益田の感傷をよそに、老医者は益田の事を誉めてくる。
「すっかり灯の消えたこの街を復興させようって頑張ってるって話じゃないか」
「えっ、ああ……。そ、そんなにたいした事は」
照れくさくなって、慌てて目の前のウヰスキーを口に運ぶ。その様子を見て、ママも笑った。
「よっちゃん、おもしろーい。そんなに安井先生に頭があがらないなら、これから毎日先生に来てもらおうかしら」
「ちょっ、ママっ!」
手をたたいて喜ぶママにくってかかると、益田はその勢いでさざえに手を伸ばした。
しかし苛ついた気持ちが手元に伝わり、実の半分程でぶちきりとちぎれてしまった。
あーあと、ぼやきながら口に運ぶと、さざえ独特の苦味が口に広がる。
「ママぁ……」
子どもの様に甘えると、ママはすぐに感づいた様だ。さっと冷蔵庫から卵を取り出すと、それを益田に見せてやる。
「福生エッグ、焼けばいいんでしょ」

 
はい。と、益田は情け無い声で返事をした。
 



15話の1.ひとまずおわり。
ここから話が続きますーー。



 
 
 
ちょっと遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
のんびり進行中のわたくしです。今年も皆さんよろしくおつきあいくださいませ。
お休みしている間、ウェブ拍手に温かいメッセージありがとうございました。
あらほくが良いと言って下さった方。
アナタはえらい!!
そうです。あらほくは萌えます。私が拙いばかりに、その萌えを十分に伝えきれないのが歯がゆいばかりです。
続きを~の声を幾つか頂けたので、調子にのって続けます。
よかったら、おつきあいくださいませ。


.................................................................


「五徳の傷」


ただいま。
仕事を終えて自宅に戻ると、部屋はすっかり冷え切っている。
カーテンをしめきった窓は結露で潤んでいた。
鞄と部屋の鍵、そしてポストに溜っていた書類を机の上に置くと、ほくちゃんは台所に向かう。
しゃがみこんで冷蔵庫をあけると、そこだけがぽっと明るくなる。
飲みかけのミルクを出すと、ほくちゃんは小さなほうろうの鍋にそれを移した。

ガス台の上に鍋をおいて火にかける。
2つある五徳のうち、一番小さなところでミルクを温める。
他の1つには鍋がおいてある。今朝の朝食を作る時に使ったままで、まだ洗っていない。
鍋をどかして流し台の中に置くと、ほくちゃんはさっきまで鍋をおいていた方の五徳を眺める。
このガス台は、ほくちゃんがここに越して来るずっと前からあったらしい。


五徳のまわりに残っている錆は、暮れの大掃除で恋人がつけたもの。
油ですっかり汚れきった部分を、嵐が力づくで落とそうとしたからだ。
洗浄液に暫くつけておけば、女の自分でも簡単に落とせるのに、
その部分が嵐にとっては無知だった。
----大丈夫、部室の掃除もこうやってるから。
そう言って、力任せにたわしでその部分をこすっていく。
数年落ちのプリンターが10枚ほど賀状を印刷している間に、それは起こってしまった。
-----ごめん、ほくちゃん。俺、なんかやらかしたかもしれない。
大きな体が急に小さくなった気がする。
気にしない、気にしない。この家をあける時は、大家さんにちゃんと謝っておくから。
ほくちゃんは、ちょっと大人な気分で恋人のへまを許してあげた。
背を伸ばして、よしよしと嵐の頭を撫でてみた。栗毛色の髪に指をからめると、すっと指どおりが良い。
見た目とは違い、嵐の髪はとても触り心地が良い。ほくちゃんは思わず、「ふう」と小さくため息を漏らしてしまった。
それを嵐は聞き逃す事は無かった。次の瞬間かがめていた背を伸ばすと、ほくちゃんの顔をちらっとにらみつけた。
一気に、嵐が元の姿に戻っていく。
そして洗い場で勢い良く手の汚れを落とすと、濡れた手のままでほくちゃんの腰に手をまわした。
----ごめん、ほくちゃん。
今度の詫びは、さっきのものとは全然違った。ほくちゃんの髪の中に、嵐の指が滑り込んでくる。
ぴたりと合わさる広い胸板。はじめて耳にする嵐の鼓動。
----あ、あら、し……!
ほくちゃんは慌てた。
抱きしめてくれるのは凄く嬉しいけど、その、私……。
まだ片付いていない掃除に、年越し蕎麦の買いだし。それに年賀状。
哀しいかな、こんな嬉しい場面でも、つい生活感が頭から離れられない。
----いいから。
何が良いからなのか、わからない。もしかして、自分の考えていることが分かっているのだろうか。
こめかみに、みみたぶに、鎖骨のくびれ。
嵐の暖かい唇の感触をそこに感じた。けれど、そこで嵐の動きは止まってしまった。
唇に触れることなく、胸元を包むこともなく。
---ほくちゃんが俺の髪に触ってきたら、なんか、俺……。
その後、また嵐は小さくなった。さっきより、もっと小さな声でごめんと詫びる。
ほくちゃんの動揺は、暫く治まることは無かった。ただ黙ったまま、2人ともガス台の汚れを見つめていた。



こうして暮れに作った小さな傷は、正月の雑煮や汁粉の吹き零れをいっぱい被った。
そしてごうごうと火をくべるうちに、その傷は赤く錆びていく。
新年が過ぎて半月経った今、ほくちゃんはその錆を見ることで気持ちが温まる。
大晦日のことが、ここに立っているとリアルに思い出せる。
あの時は嬉しいような切ない気持ちになったけれど、今は嵐を想う気持ちでいっぱいになる。

「うーんと。コーヒー牛乳にしようかなあ」
インスタント珈琲のビンの蓋をあける。すでに牛乳は十分温まっていた。
茶匙で顆粒を一匙すくって鍋にいれる。
乳色の鍋の中は、瞬く間に茶色く染まっていった。



おしまい。
今度は、ほくちゃんと嵐がお外で凧揚げをする話だよ。(次回予告)
※「先生のソナチネ」読んで下さって有難うございます。コメント有難うございます!
ちょっと話の間に、違う小噺を挟ませていただきます。
以前書かせてもらった、嵐さんとアラサーな「ほくちゃん」との、恋のお話の続きです。
月1ぐらいで書かせていただきたいと思います。

ではでは、お話はじまり。

『いやだいやだ』

11月の中旬を過ぎたら、ほくちゃんはとても気持ちが落ち込んできた。
基本的にマイナス思考優先で日々過ごしているのだけれど、この時期は特に辛い。
それも仕事をしていない時の、完全なオフの日が。
朝起きると、窓のカーテンをあけるのも億劫。テレビもあまり見たくは無い。
折角湯を沸かしても、その後お茶を作る気にもなれない。沸かした湯はいつのまにか
温み、日が高くなった頃にはすっかり冷めていた。
あーあ、ガス代損したなあ。ほくちゃんはそう心の中で省みるものの、すぐには
その行動を改める事ができないのも知っていた。

もうやだ。とにかくやだ。やだやだやだ。やーだもーん。
子どもの頃に読んだ御話の様に、頭の中は稚拙な言葉で埋め尽くされる。
どうしよう。今日は買い物にも行きたくない。冷蔵庫の中、何にも無いのに。
何ヶ月か前に買った情報誌を開くと、ほくちゃんはその上に足を置いた。
投げ出した素足は開いた紙の上にぼんやりと影を落とす。
爪の上に重ねたマニキュアの色は季節外れな水色。そういえば、嵐がこの色を見て、ちょっと顔をしかめてた。
あまり良くわかんねえけど、もっと自然な色を塗った方が良いんじゃねえ?
年下の恋人は、そう言いながら同じ色をしたかき氷を食べていた。
夏の浜辺には似合うような気がして塗ったのに、誉めてもらえなかったのが悔しかった。
それでも一瓶使い切ろうと思ったのは、子どもじみた意地。
夏が過ぎ、秋が来て、もうすぐ冬を迎えようとしているのに、ほくちゃんの爪先は青いまま。

もうやだ。とにかくやだ。やだやだやだ。やーだもーん。
むつっと黙ったまま足の爪を切っていく。
「でもさ……嵐はさ」
それでも、こんな色をした足を、嵐は好きだと言ってくれる。中指の爪を切り落とした時、ぽつりと独り言を呟いた。
ほくちゃんの足首は細いんだよ。あまり運動には向いていない足の造りだけど、俺は好きだ。
そんな事を言って、嵐は足首をきゅっと掴んできた。
相手はただ無邪気にほくちゃんの足首を掴んだだけに違いない。それなのに、ほくちゃんの方はどうしようもないくらい
恥かしい気持ちになった。
相手の胴着に激しく手をかけるのと違って、ほくちゃんの足首に触れる時は別人の様にその手は優しい。
そして、顔以外の素肌に嵐が触れたのは、今だもって足だけだ。
明日、マツキヨでネイル買ってこようかな。もっと優しく可愛い感じの色の。そうしたら、また嵐はこの足に触れてくれるだろうか。
ぱちり、ぱちりとリズムの良い音が続く。嵐の事を考えているうちに、ほくちゃんは少しずつ気持ちが治まっていった。

 

 

爪を全て切り揃えると、ほくちゃんはふたたび暇になった。
「よし!」
覚悟を決めたのか、とうとう、ほくちゃんは重い腰をあげた。爪きりの時に使った情報誌はゴミ箱の中へ。
今度はちゃんとお茶を淹れよう。沸かした湯を無駄にしないようにしよう。
ガス台に火をつけて、水の入ったポッドを置くと、ほくちゃんは茶缶の蓋をあけた。
今日は番茶にしよう。この前スーパーで見つけた「赤ちゃん番茶」。赤ちゃんでも飲める番茶なのか、赤ちゃんのような番茶なのか
なんでそんな名前なのかは分からないけれど、この鬱々とした気持ちを慰めるにはぴったりな名前だ。
一度気持ちを切り替える事ができると、そこからは面白いぐらい前向きになる。
台所のシンクの中、隙間が無いくらいに詰め込んだ汚れた食器。一人で暮らしているのに、どうしてこんなに洗い物を溜め込めるのだろう。
ほくちゃんは決して汚れ性では無い。普段外に出ている時は、ちゃんと化粧もしてそれなりに小奇麗にしている。
部屋の中も、誰かが来る時はけっこうきれいにまとめている。けれど、気持ちが外に向いていない時や
誰にもかまわれていない時は、なんだかとても無精になってしまうのだ。
もう、やだやだって言わないもーん。
相変わらず言葉は稚拙だが、随分気持ちは変わっていた。きちんと気持ちが変わった頃、丁度タイミング良く湯が沸いた。
さあ、お茶でもいれましょうか。小さな急須の中に茶葉をいれる。かさかさと、茶葉は落ち葉のような音をたてた。
そして沸点から少し引いた温度の湯を急須に注いでいると、玄関の方から物音が聞こえる。
ぴんぽーんと、チャイムが鳴った。

「ごめんください!」
新聞受けの隙間から、声がきこえた。もしかして。急いで急須の蓋をかぶせると、ほくちゃんは台所から玄関へかけていった。
「どなたですか」
ほとんどわかっていたけれど、どうしても確かめたくなる。
「あっ……。えっと、フジヤマです」
恥かしさを抑えているように聞こえる恋人の声。
「今開けるから」
フジヤマですと最後まで名乗りきらないうちに、ほくちゃんは扉をあけていた。
「嵐ぃーー」
玄関に恋人が足を踏み入れた瞬間、ほくちゃんは相手の胸座に激しい頭突きをかました。
「うわっ痛えっ!ちょっ、なんだよほくちゃん」
「もう嵐の馬鹿。ばかっ。ばかっ。ばーか」
「なっ、なんでいきなり馬鹿呼ばわりされるんだよ」
「なんでもない!違う!なんでもないんじゃない!」
「はあ?なに言ってんだかさっぱりわかんねえや」
「わかんなくたっていい!とにかく部屋に入れ!」
どんなに強豪な兵よりも、目の前の恋人には敵わない。ほくちゃんの駄々を、嵐は大人しく受け止める事にした。
4、5日顔を見ていない間に、随分やさぐれているな。それにちょっと……。
「痩せたか?」
腰のくびれに触れた瞬間、ほくちゃんは「ぎゃっ!」と声をあげた。
「もうやだ!変なとこ触るな!」
「触るなって……」
そう言いながらも、嵐の手は休まない。ひょいとほくちゃんを肩の上に担ぐと、嵐は台所へ直行した。
「喉渇いた。茶、飲ませて」
自主トレで10キロ走ってきたばかりで喉がからからだ。ほくちゃんを担いだまま、片手で湯飲みに茶をそそぐと、
嵐は音をたててそれを飲み干した。
「うめっ」
短めに、それでも最大の誉め言葉だと思う。やっと床に足をつけると、正面から嵐の顔を見る。
目が合うと、嵐はまっすぐにほくちゃんの目を見て笑った。

 


「ふーん」
茶を飲んで一息つくと、やっとほくちゃんはいつもの様子に戻っていた。
あんなに激しく出迎えてくれたのが嘘のように、交わす言葉は素っ気無い。
けれど嵐は知っている。照れている時ほど、ほくちゃんはそうなるのだ。
「で、俺がずっと来ないから、ほくちゃんいじけてたんだ」
「いじけてなんか」
「いじけてた。駄目だなあ、大人のくせにくよくよしてさ。折角の休みなんだから、もっとしゃっきとしろよ。
ジョギングとかしたら良いじゃん。なんなら俺、つきあうけど」
「いい」
「いいって、何?一緒に走るってこと?」
「違う」
「じゃあ、なんで嫌?」
「だって嵐、絶対にしごくもん」
「しごく?」
「うん。嵐とやると何でも修行になると思う。私みたいなオバサンには絶対無理」
「はいはい。わかったわかった」

不機嫌そうな声。それでも後ろからそっと抱きしめてみると、ほくちゃんはそれっきり黙ってしまった。
なんて寂しがりやなんだ。俺がいないと、すぐに「よわよわ」になっちまう。
「あのさ、ほくちゃん」
きれいに櫛の通った髪、優しく撫でてやりながら嵐は話を続ける。
「期末テスト終わったら、星見に行こう?さっき淹れてくれたお茶、もっていってさ。
ほくちゃんが良いなら、夜、遅くなっても構わないからさ……」
テントを張って、飯を作って、星をながめてシュラフの中にくるまって。その先はどうなるのか分からない。
けれど、そばにいてあげたら、きっとほくちゃんは素直に笑ってくれるだろう。
「うん……」
こくりとほくちゃんは頷く。よしよしと、嵐はもう一度ほくちゃんの髪を撫でてあげた。

 

fin

 

冬の嵐とほくちゃんの話。あらほく大好き!あらほく大好きな方には、本当に恐縮なんですが
図々しく書かせてもらっています。
嵐は脚フェチだと良いな。
11月のお話は、これでお終い。続きは来月に。いつくか短編を繋げていこうと思います。

 

 

 

 

花壇のわきに置いておいた作業道具を集めて荷台の上に積み込む。その上に収穫した物を積むと結構な高さになる。
「よっ、とっ、とっ、とっ、とっ……」
私の背をはるかに越えているから、前の方は何にもわからない。
思わずよろけそうになりながらなんとかバランスを保って、一輪車をゆっくりと押していく。
何度も往復してできた一輪車の轍(わだち)がずっと先の方まで続いている。部室までの道のりはけっこう長い。
「あっつー」
やっと陽が落ちて薄暗くなったグランドは、まだ熱気が十分こもっていた。
「小波おつかれー」
「どうもー」
丁度練習を終えたばかりの野球部員達がぞろぞろと群れをなして私を抜いていく。
すれ違う時に感じる湿布と汗の匂い。
おつかれさんなのは、きっと向こうの方だと思う。真っ黒に汚れたユニフォーム、背中が大きく波打っている。
「うっす、小波」
野球部のキャプテンが追い越しざまにぼそっと声をかけてくれた。
「あっ、先輩どうぞー」
ぺこりと頭を下げながら収穫したトマトを1つ渡すと、先輩はちらりと私をみる。
「俺、あんまりトマト食わないんだけど」
それでも私からトマトを受け取ると、先輩は「ありがとな」と短めに礼を言う。そしてまっすぐにクラブハウスに向かって歩いていく。

「こなみー」
今度は同じクラスの子が声をかけてくる。タカハシ君だ。立ち止まって振り返ると、白い歯がきらりと光った。
角刈りの頭がちょっと可愛らしい。つむじの所に小さな禿げがあって、いつも皆からいじられている。
「トマトいっぱいじゃん」
私の許可を待たずに、もう齧りついていた。
「どう?味は」
「……ああ。酸っぱい」
「やっぱり」
「でも、喰えるから良い」
「良かった」
他愛も無い会話。互いに疲れているからそれぐらいが良い。
「そういえばさあ、こなみー」
「うん?」
「テスト週間って今度の水曜からだっけ?」
タカハシ君は唇の右端にトマトの小さな種をつけていることも気付かない。
とってあげたいけれど、そんなことをしたら、またさっきの守村くんみたいになっちゃうからやめておこう。
「そうだけど」
「やっぱそうかあ……」
テストの話になると、みんな決まって不機嫌そうな顔になる。少し剃りすぎた眉を引きつらせて、タカハシ君は小さくため息をついた。
「じゃあ野球部はしばらく休み?」
「たぶん」
籠の中からもう1つ、つまみ食い。お腹空いてるのかな。
ちなみに私のクラブは休みが無い。厳密に言えば、年中無休。
放っておいても育つものもあるけれど、少しでも手を抜いたら枯れてしまうものも多いから。
「俺はテスト週間に入る前から休みが決定。つか、明日からもう来るなって言われた」
「なんで?」
「なんか肩壊したみたいでさ」
「そうなんだ……」
彼の言葉に内心動揺した。タカハシ君はこのクラブで随分期待されている選手だ。
期末週間が過ぎたら地区予選大会がすぐにはじまると言うのに。
「この前からずっとなんか調子わりいな、って思ってたんだけど」
「うん……」
「さっきもベンチのところで冷やしてたら監督がやってきてさ、
明日からは1年の日比谷に投げさせてみるって言いやがってさ。
予想ついてたんだけど。なんかすっげえ腹立ってきてさ」
「うん……」
こんな時、なんて言ってあげたらいいのか分からなくなる。
慰めてあげたくても、全く言葉が思いつかない。
すぐに治るとか、大丈夫とかそんな適当な事を相手に言って良いのかもわからない。
「けどさ、監督の前でキレずに済んだ」
「そっか。それは賢明な選択だと思う」
「だろ?ま、小波のおかげでもあるんだけどね」
「へっ?」
これで何度目の「へっ?」になるんだろう。今日は不思議と驚かされることが続いてる。
「オマエだろ?ピアノ弾いてたの」
ピアノ?ピアノって何?ピアノって、もしかすると……。
「あん時、小波のピアノが聴こえてきてさ」
「ええっ?!」
びっくりして思わず荷車から手を離してしまった。その瞬間、一輪車はバランスを崩してぐらりと右に傾いた。
「うおおおー!!」
咄嗟にタカハシ君が崩れそうな荷物をがしっと体で受けとめてくれた。それも故障している肩で。
まわりの後輩君たちも気付いてくれて、私たちの周りをわっと取り囲む。
いがぐり頭をつきあわせて、地面にちらばったトマトを一生懸命に拾い始める。
「すみません!すみません!」
謝っているうちに、あっと言う間に一輪車は元の状態に戻っていた。
そして代わりに彼らが押してくれている。それも馬のような速さで。
「あ、それは私が」
押していきますから。そう言いたかったのだけど、とっくに一輪車は見えなくなっていた。
「ごめん……」
「いいんじゃない別に」
「ありがとう……」
「それはあいつらに伝えて」
「はい……」
驚いて反省して感謝して。いっぺんに色々な感情が混ざり合って、とても複雑な気持ちになる。
手ぶらになった私は、このままクラブハウスまで一緒に歩いていった。
クラブハウスに着くまでの間、タカハシ君はふと耳にしてしまった私のピアノについて、色々と語ってくれた。
とにかく変で、ちょっと面白くて、でも最後まで聴きたくなる音。
そういえば、守村くんもさっき同じ様なことを言ってくれたっけ……。




この後私たちは、休耕地の一角に腰を下ろしてもぎたてのトマトにかじりついた。
先に守村くんが半分かじって、その後半分を私が頂戴する。
手渡された時、果肉に守村くんの歯型が残っていて、ちょっと照れた。
トマトを2人で分け合うなんて、1年前なら絶対に抵抗があって出来なかったけれど、最近はむしろ嬉しかったりする。
どんなものにしろ、まずは畑を耕すところから一緒にはじめている。
肥料の与え方、ビニールのかけ方、害虫の駆除の仕方。どれをとっても私たちの意見は合わないのだけど、
それでも畑に出てみれば、一緒に作業をすすめる。
この前先輩から、これらの作物は2人で作ったものだから、どれも自分達の子どもだと思うと良いと言われて、
なるほどと感心した。守村くんの方は、随分恥かしがっていたけれどそんな事は気にしない。
どんなに出来が悪くても、見栄えのしないものができたとしても、どれも凄く愛着を感じてしまう。
そして守村くんには、大きな連帯感を感じる。友達と言うより、同志と言う様な。
だから私たちはトマトでもスイカでも、1つの収穫を一緒に味わうようにしている。

「ねえねえ。この前頼んでおいたあれ、守村くんとこ、どんな感じ?」
「ああ、残飯を堆肥にするって言う、あれですよね」
「うん。私の所はね、けっこう良い感じにできてきたよ。ちょうど半分くらいの量になったかなあ」
自分の家で出した残飯を使って、肥料を作りたい。
守村くんと先輩達数人に協力して作ってもらっているのだけど、なかなか事はうまく運ばない。
それでも、守村くんはリンゴの皮や卵の殻をわざわざ天日で乾燥させて持ってきてくれる。
花を1つ咲かせる為に、作物を1つ実らせる為にどれだけ愛情を注ぐことができるのか。
クラブ活動2年目でようやく、活動の面白さに目覚めてきたところだ。
「小波さんは順調ですね。僕のところはその……」
「うん?」
一瞬、守村くんの表情が陰る。
「家でご飯を食べる者が少ないと言うか……その、食事は殆ど僕一人だし、父は外食で済ませることが殆どで」
メガネのブリッジを押さえながら、守村くんは小さく笑った。
「ああ……。それはしょうがないんじゃない?」
「すみません、なかなか力になれなくて」
「全然!守村くんのペースですすめていってよ」
「そう言っていただけるとすくわれます。家政婦さんが上手にゴミを出さないように
作って下さってて、それに僕も食べ残すことに抵抗があるので」
「うん。それが一番良いと思う」

最近になって、少しずつ彼の家の事情がわかってきた。
家ではほとんど一人で暮らしているとか、話しかける相手は小学生の頃から育てた梅の盆栽だとか、
少しでも気持ちが塞がないようにと、テレビのお笑い番組を結構見ているとか。
もっともっと、思っていることを話した方が良いと思う。
こんなふうに、トマトをかじりながらで良いからさ。
トマトを食べ終えると、私たちは暫く呆けたように空を眺めた。
梅雨に入る手前の、最期の晴れ間だと思う。少し分厚い雲が西の空に広がっている。
きっと今晩から雨が降るだろう。

「そういえば……」
何かを思い出したのか、守村くんの声があかるくなった。
「そういえば、何?」
「さっき、僕がヒャクニチソウに水を撒いていた時」
「うん?私、まだここに」
「来てません。小波さんは、まだあそこにいた」
「あそこって。……あっ」
守村くんが指差す方から、幾つもの金管楽器の音が聞こえてくる。
「今日のピアノ。聞いていて楽しかったなあ」
守村くんはお月さんのように目を細めて笑った。



※ついったーやウェブ拍手で色々感想下さいましてありがとうございます。
読んでくださる人がいるのは本当に嬉しいです。
守村くんとの描写は、できるだけ丁寧に書いていきたいと思います。
メインは氷室先生の話ですけど、脇役をしっかり書こう。これが今回の目標です。

※さつきさん、どうもありがとうございます!そして御無沙汰しております。
あとでメッセージ送りますね。

「あっ、ここにもいた」
「どこですか?」
「ほらここ」
掌ほどに広がったジャガイモの葉を裏返すと、そこには小さな虫が何匹も張り付いている。
「うーん……いますねえ」
守村くんの顔がちょっと曇る。
「ねっ。ちゃんと駆除したつもりだったんだけど」
つもり、では駄目だった事がこれで良く分かった。決まってこの時期になると、ジャガイモや人参の葉を食い尽くす虫が湧くのを、去年の夏に私は知った。
テントウムシの仲間なので、見た目としてはそんなに気持ちの悪いものじゃない。
ナナホシの成虫を半分くらいに縮めた大きさで、その小さな羽根には同じ様な紋がついている。ヒメカメノコテントウと言う名前の害虫だ。
その害虫達がはびこった跡は、葉の裏をひっくりかえすとすぐにわかる。
葉脈が透けるほど養分や水分を抜き取られて、かさかさになっている。まるでお婆さんの顔みたい。
充分に栄養を補給できなくなったジャガイモの収穫は、あまり期待する事はできない。

「無農薬栽培って難しいですねえ」
首に巻いたタオルで顔の汗をぬぐうと、守村くんは小さく笑った。
「ほんとだね」
他の畦の作物と見比べると、その出来の違いはすぐにわかる。
私たちが立っている畦の所、ここだけは守村くんが特別に手を加えていた場所だ。
今年の4月のはじめ、種芋を地中に埋める時点で、彼は先輩達に無農薬栽培を提案したのだ。
植物に負担をなるべくかけないで、本来持っている自生力を生かして育ててみたい。
それまで、単に花を大きく咲かせようとか、野菜を沢山収穫させようとか、そんな事ばかり考えていた部員達にとって、守村くんの提案はとても新鮮に感じた。
時々ママが家族に向かって、「今日のトマトは無農薬だから良いのよ」って満足気に言う事があるけれど、
何が良いのかはっきりわからない。
安全とか健康とか高価だったからとか、理由を聞くたびに返される言葉は曖昧だ。
ただ、食卓にそれを出した時の、ママの優越に充ちた笑顔を見ると何となく安心するのは確かだ。
無農薬栽培って、本当にできるのかな。
守村くんの提案に「乗っかる」形で、私もちょっと彼の手伝いをさせてもらう事にした。
そして今も、ちょっと苦い思いに浸っていると言うわけだ。

「でもさ、思ったより被害は酷く無いような気がするんだけど。ほら、先輩達のとあんまり背丈は変わらないし」
「地中ではどうですかね」
「なんにもなってないとか?」
「うん……」
「1つぐらいはなってるっしょー。ねっ、1つでもなったら、一緒に食べようね!」
自分で言いながらも、結構お気楽な発言だと思った。案の定、彼は一瞬呆れたような顔をした。
「うらやましいな」
「なにがー?」
ジャガイモから3つ隔てた畦に移動すると、私はトマトを一房もいだ。
「小波さんみたいに、僕もおおらかな気持ちで植物に接していかないといけないなあって、反省してたんです」
「おおらかと言うか、大雑把ってことよ」
もいだばかりのトマトは、かすかに青臭く、まだ熟しきれていない果肉は硬さを残している。
「守村くーん!これ、おやつにしようー」
今から投げるねー。
大きな身振りでアピールすると、守村くんはちょっと慌てた。
「あっ、あっ!ちょ、ちょっと待って」
かけていためがねをサッと外して、タオルでレンズを拭きだす守村くん。
いや、レンズなんて拭かなくて良いから、ちゃんとキャッチして。


「いっくよーー」
放り投げた青いトマトは畦を3つ軽々と越えていった。





※創作復帰に向けてリハビリ中ですー。数年前を思い出しながら、一日数行でも書き続けてみようと
先生のソナチネ1 







「サイトー。もう、そこ掃き終わったからいいよー」
「さんきゅー」
「あっ、なんか俺、今すっげー腹痛くなってきた」
「えっ?腹痛いって。弁当が当ったんじゃない?」
「ちっげえよ」
「やっぱあれじゃない?さっき現国の時さあ、アンタ鶴田に隠れて菓子食べてたじゃん」
「やば。斉藤、オマエ見てたんだ?」
「見えるっつーの。音漏れてたしー」
「音漏れ…って、なんかやーらしー」
「何がやーらしーのよ」
「ちょっと……斉藤さんと安井さん」
「わっ!有沢」
「あなた達、今は清掃の時間でしょ。無駄口叩いてないで、早く済ませてください。
吹奏楽部がこの教室を利用するのは、後8分後ですから」
「……」
「はーい……」
「こええ、有沢って」
「ちょっと、聞こえるって」
「いいんだって。ったく、余計腹痛くなってきた」
「もういいから、早く済まそ。有沢さん、また怒ってくるから」
「サイトーの方がもろ聞こえだって」


授業後の清掃の時間。傾きかけた陽の光が、天板をとじたままのグランドピアノに集まっている。
掃除機をかけて、黒板のまわりをきれいにして、部屋の隅にまとめて置かれた譜面台をどかして、そこに溜った埃を箒で掻きだしていく。
音楽室の清掃は、だいたい、いつもこんな感じだ。
視聴覚室から流れてくる、どこかの管弦楽。私にはその曲の名前は思いつかないけれど、子どもの頃から聞いた事のある曲。
4時15分をまわるころ、決まってこの音楽が校内中に流れてくるのだ。
曲がかかり始めてから終わるまで16分23秒ぐらいだと、誰かがそんな事を言って、一時私たちの間で話題になった。
その約15分あまりの時間が、私達の清掃の時間。きっちりやろうと思うと15分では足りない。
けれど、「てきとー」に済ませてしまおうとすれば5分もいらない。
私のクラスの人たちは半分以上が「てきとー」に済まそうとするので、そのたびに有沢さんが軽くかんしゃくを起すのだ。
有沢さんは、私たちの学年の中で、たぶん一番真面目な人だと思う。
頭も良いし、校則は絶対に守るし、言葉遣いだって丁寧。
ちょっと背が高いのを本人は気にしているらしいけれど、私からしたら有沢さんって、物凄くスタイルが良いから羨ましくなる。
化粧は全然していないけれど、お肌が凄くきれいなのも。
飾れば、もっと彼女の魅力が引き立つのに、ほとんどしないのが彼女の良いところだと思う。
でも、ちょっと言葉がきついから敵を作りやすい。
私はあまり気にならないから、けっこう上手くやっていけているのだけど……。

白鷺の様に華奢な背中。有沢さんは黙々と窓ガラスを拭いていた。
校舎の中で一番広い音楽室。
二畳ほどのガラスが16枚もあるのだから、ひとりで拭くのは大変だろうに。
掃除機をしまうと、乾いたふきんを持って私も窓辺に立つ。窓の向こうには野球部が主に使用する第3グランド。
手短に掃除を終えた部員達が、既にグランドのまわりを走り始めている。
今日は自分も忙しいな。
窓に向かって、たてたてよこよこと布巾を動かしながら、掃除の後の事を考えた。
昨日から始まったトマトの収穫を、まずは終わらせること。理事長室の前にある薔薇の剪定をすること。
剪定がうまくいったら、北校舎のはずれまで走って行って、そこに設置してある百葉箱の外回りを掃除すること。
時間があったら、箱の中を覗いて湿度計と温度計が正しく作動しているのか確認すること。
その後は…その…なんだったっけ?
「小波さん」
「へっ?」
やっぱり、有沢さんに注意された。
「へっ?じゃ…、ないでしょ」
横を向くと、眼鏡越しに有沢さんが軽く睨んでいる。注意しながらも、手は休めない。えらいもんだ。
「ごめん、よそ事考えてたー」
「そんなこと分かってます」
更に軽く嫌味。けれど、何にも気にしない私。
「いやあ、結構忙しいなあーって思ってさあ」
「クラブのこと?」
「うん。この前ジャガイモの収穫で大変だったのにさ、次から次へと世話するものが出てきちゃってさ。
園芸部って、もっとこう……お洒落なブーツはいて、可愛いプリントのグローブはめて、
小さな鉢植えをこさえるクラブだと思ってた」
「現実は?」
「ぜーんぜん。昔の言葉で言う、野良仕事だね。すっごい体力勝負。重いものじゃんじゃん担ぐしさ、校舎の緑があるところって
全部自分達の管轄じゃん。もう、走りづめよ。運動系のクラブと運動量は全然かわんないって。むしろ多いって感じ」
「ふふっ」
上品な声で有沢さんが笑う。そうだ、この人は、ちゃんとユーモアの分かる人なんだ。
「クラブがおわると、疲れちゃって、くったくたなの。勉強なんて、全然する気ないし」
「愚痴は良いから、もう終わったら」
「へっ?」
また、「へっ?」って、間抜けな反応をしてしまった。けれど、有沢さんは、もう怒ることは無かった。
怒るどころか笑ってる。静かに、口元だけ笑みを浮かべて。

「あと2分30秒。自由に弾ける時間は、それだけよ」
彼女のめくばせした方向には、一台のグランドピアノ。
いつのまにか天板を大きく開いて、奏でてくれる誰かを待っている。
「わっ!2分30秒?たったそれだけなのー?!」
「そうよ。厳密に言えば、もう2分近いかしら」
「わっ、やだ!どうしよう、ふきん。ふきん!」
「貸して。私が何とかするから」
「へっ?」

三度目の「へっ?」に対しては、もう何もコメントがなかった。代わりに素早く私からふきんをひったくると、彼女はそそくさと教室を出て行く。
さっきまでふざけていた斉藤さん達の姿は、すでに見当たらない。音楽室の中は私一人だ。
「二分、二分、二分、二分……!」
吹奏楽部の人たちがくるまでに、唯一自由にピアノを触ることができる時間。
本当は許可無しで部員以外の人がピアノを触ってはいけないのだけれど、前に一度弾いてみたら、
それを耳にした部長の先輩が特別に許してくれたのだ。
ただし、部員が来るまでの間。部員が一人でも来たら、例え演奏が途中でも終わらなくてはいけない。
「よーし……!」
横長の椅子には腰掛けず、立ったままに私は弾き始める。随分行儀が悪いけれど、そんなこと構っていられない。
昨日は、即興で作った「トマトの歌・パート2」。その前は「守村くんと剪定ばさみ・第一楽章」。そして今日は……!
「”有沢さんって良い人なんだよソング”にしちゃおう!」
まずはマイナーな感じを前面に出して、Bメロでがらっと雰囲気変えて。
有沢さんって、本当は美人さんなんだよー、本当はツンデレなんだよーって。

譜面なんて一枚も無い。思いのままに弾く。これが私のピアノ。誰かに習ったことなんて無い。全部、自分で考えて弾く。
「やーん!もっと時間が欲しいー!!」
右指で激しくトリルしながら、私は激しく悔しさをぶちまけた。







いやっほーい。ひっさびさに話かいてるよー。
※「あらほく」とは、あらさーの「ほくちゃん」と言う女の子と嵐さんの恋のお話です。
……と、とってもファンタジーな話です。

寛大な気持ちで読んでくださいな。



短編その1   「みやげもの」


もうすぐだ。
それまで読み進めていた漫画本をぱたんと閉じると、ほくちゃんはテレビの上に置いてある時計を見つめた。
時計台を象った稚拙な創りのそれは、もうすぐここにやってくる予定の恋人からの、旅の土産だった。
あまり美味しくないバター飴とキタキツネのバッチ、そしてこの目覚まし時計。
今から1年と少し前、ほくちゃんはこれをもらった。

「これなんだけど……。ほくちゃんは、ちょっと寝起きが悪いからさ。だから、これでもいいんじゃねえかって、さ」
そう言って、少し照れ笑いを浮かべながら、彼はほくちゃんに土産の包みを渡した。
その時彼は、17の誕生日を迎えたばかりだった。
青少年というより、頭に「青」と言う文字をとっぱらってもおかしくないほど、彼は若い。
そんな、自分より遥かに年下の彼が、自分の為に選んだ土産。
ほくちゃんは、それを見た瞬間、ただ「ふーん」と、だけ言った。
そして中身を確認することもなく、不機嫌そうな顔をして台所の方へ逃げた。
恥かしかったのと、嬉しかったのと、色んな気持ちが溢れそうになったのだ。
だけど、それをむやみに相手に披露してはいけない。
男なんて、こっちが惚れているのを知ったらすぐに態度を変えるから。
ましてや向こうは、自分よりもずっと若い。そんな彼が年上の自分に愛想を尽かすのは時間の問題だ。

嬉しいことなのに、すぐに悲観的に物を考えて守りに入ってしまう。
数ある経験の中で得た、ほくちゃんなりの精一杯の駆け引きだ。
台所へ逃げたほくちゃんは、何食わぬ顔を装いながら、若い恋人の為に湯を沸かした。
そして静かに茶を一服淹れると、無愛想な顔をして茶をふるまう。
「ほくちゃんのお茶って、やっぱ、すげえ……」
17歳なりの幼い言葉だった。
けれどほくちゃんは、その言葉を特別な想いで聞いていた。恋人の、ひとまわりも大きな胸の中で。

今日は煎餅にしようかな。
立ち上がると、ほくちゃんは台所へ向かった。やかんに水をくべ、火をかける。そしてこぶりな湯飲み茶碗を2つ。
旅の土産物は、ここにも健在していた。修学旅行は、ガラス細工で有名な北の土地だったはず。
なのにどうしてか彼は、湯飲み茶碗を2つ持ってきた。
落としたらすぐにかけてしまいそうな焼き物の湯飲みに、自分で染付けを施したもの。
友人達と遊びのつもりで作ったらしいが、できあがった作品はすこぶる真面目な作りだった。
ひとつには、「ほくちゃん」。そしてもうひとつには恋人の名前である「嵐」。寿司屋の湯のみの様に立派な筆文字だ。

「なんで、名前をわざわざ書いたの?何か絵でも入れたら良かったのに」
こんなにでっかく「ほくちゃん」なんて書かれたら恥かしいよー。
最後の部分は心の中でぼやいた。
どこまでも無愛想なほくちゃんに対して、それでも彼は何も怒らなかった。
しかもちょっと嬉しそうな顔で、こう答えたのだ。
「うん。なんかさ、夫婦茶碗って感じがしてさ」

それ以来ほくちゃんは、彼が家を訪ねるたびに、この茶碗で茶を淹れることにしている。
ちょっと良い茶を使って丁寧に淹れて、決まって不機嫌そうに出している。
そしてほくちゃんが淹れてくれたお茶を、彼はごくごくとがぶ飲みするのだ。

「嵐、まだかなあ……」
うっかり独り言を漏らしてしまったほくちゃん。誰もいない部屋の中でぽっと、顔を赤らめるのであった。

 


今日のおはなしは、これでおしまい。

 



「かげぼうし」

昔、僕のことを至極可愛がってくれた人がいた。
母さんのお姉さんにあたる人らしい。僕にとって伯母にあたるのかどうかよくわからない。
祝う時と弔う時にしかその人と会う機会はなかったけれど、顔をあわせるたびに菓子をくれ、
ふくよかな胸の中に僕の体をぎゅっと包んでくれた。
母さんとは随分雰囲気の違う物静かな人だったけれど、僕はその人のことが好きだった。

その人と最後に会ったのはいつの頃だったろうか。
あの時も僕の知らない人を弔う席だった。
白檀の香が立ち込める仏間から少し離れた部屋で、僕は一人時間をもてあましていた。
寂しくて淀んだ空気を幼いなりにわかっていて、大人たちがいる場所へはとても近寄れなかった。
円卓の上の茶菓子を食べて、絵本を広げて、座布団の上に寝転がる。
そんな戯れを長い事続けて良い加減に飽きていた時だ。
「太陽ちゃん」と小さな声で、その人は僕の名前を呼んだ。

---太陽ちゃん。一人でお留守番してたから、おばちゃん良い事教えてあげるよ。
その人は、僕を膝の上に座らせると静かに話しをしてくれた。
---もしもアンタが大きくなって、誰か好きな人でもできたらね、
その人の影法師をそっと踏んでおやり。
そっとだよ。そうしたら、きっと好きな人はあんた、太陽ちゃんの事を好いてくれる。それに……。

----それに、あんたのそばをきっと離れないから。

それに、の続きはもっともっと小さな声だった。幼心に、その人の言葉はとても染みた。
あれから随分僕は大きくなったのだけど、それでも時々思い出しては感傷に浸ることがある。
きっとあの弔いの席は、あの人の近しい人だったのかもしれない。
何故なら、あの人の眼が兎のように赤かったから。
そして僕は今、あの人が教えてくれた言葉をこっそり実践してみようと思っている。
こんなまじない、何の効き目も無いと思う。
けれどそうだとしても、そっとその細い影を踏んでみたいのだ。

***********


 

---たしかあのコ。春日くんって言うんだっけ。さっきの送球結構良かったんじゃない?
日が沈みかけたグランド。かすれた掛け声と太い野次の中で、
彼女の声は一際清んだ音として僕の耳に届いていた。
いつのまにか僕は母さんの背を大きく越し、毎日学校が終わるとグランドで野球の練習に励んでいた。
ダイヤモンドの一角から数メートル離れた場所、内野手が取り損ねたボールを
全て拾い集めるのが僕の役目。
なりはでかくなっても、心の方は昔と変わらず軟弱な方で、
練習を終えるたびに後悔と挫折を繰り返している。
自分で言うのもなんだけど、芯からネガティブ思考な奴だと思う。
そして、ベンチの奥でスコアボードを片手に、さっきから部員全員に声援を送っている……
いつか踏んでみたい影法師の主は、僕より2つも年上の先輩だった。
とても明るくて、誰にでも優しくて、笑うと右の頬にぽちっとえくぼができる。
当然の事ながら、彼女は皆に好かれていた。
50人以上もいる大所帯の中で、僕みたいな下っ端は名前さえも覚えてもらえないと
思っていたのに、彼女は僕が入部したその日に、僕の名前を覚えてくれた。
----春日くん、下の名前は太陽って言うんだ。良い名前だね。
そう言うと、彼女は僕のキャップに手を伸ばした。
髪の毛はできるだけ帽子の中にしまうか、短く刈り込んでくるようにと
早速小言を頂戴したけれど、僕は殆どはなしを聞いていなかった。
彼女の白い手が、そっと僕の髪に触れたから。
少し癖のある僕の髪は、彼女に触れられた効果で更にくるくるとうねりそうになった。
中学の頃からここに進路を決めていたけれど、その志望の1つが
彼女だとはとても言えなかった。
まだ、母さんと僕の背が同じぐらいだった頃、僕は今よりもずっと
生き辛い日々を送っていた。
勉強のことも、友達のことも、何一つ不自由していることはなかった。
でも、いつも僕には何かしら後ろめたい気持ちがつきまとっていた。
普通に呼吸をする事すら哀しくて、本当に辛い辛い日々だった。
これが思春期特有の感情なのだと知ったのは、つい最近の事だ。

そんな中、志望校の野球の試合を見に行った時に、彼女の姿を見つけた。
掃き溜めに鶴と言う言葉があるけれど、彼女はまさしく鶴だった。
試合終了後の、まだ負け試合の悔しさが残っているグランドの上を、
彼女は他の部員達とトンボをかけていた。
悔しさに嗚咽をはきながらグランドの土をならす部員達に、
彼女は優しく肩を叩き包み込むような笑顔でその哀しさを受け止めていた。
その時見た彼女の影法師が、あまりにもはかなくて、僕は気がつくと泣いていた。
そして僕は、そんな彼女に恋をした。

きっと彼女は、僕の気持ちなんて知らないだろう。
だけど、もっともっと練習をしてレギュラーのポジションを獲得したら、僕はあの「おまじない」を
実行してみようと思うのだ。
そうしたら、おばさんの赤い眼の想い出も、線香臭い部屋の中で退屈してことも、
今までも後ろ向きな考えも全て消えてしまうような気がするのだ。
----先輩。次に球が僕のところに来たら、僕、ちゃんと取りますからね。
だからお願いです、僕のこと見ていてください。
そして、あなたの影、そっと踏ませてください。
やや腰を低めにして、次の打者を待ち構える。向こうは1番。打順が先頭にまわってきた。
これはヒットの予感だ。

さあ、来い。
僕はグローブのひらに、がつりと拳骨をあてていく。ピッチャーは大きく振りかぶった。


fin



「かるた企画」読み札の「ほ」。
これにちなんで小噺を1つ。
 
春日きゅんのナイーブな感情を、こんな感じで書いてみたよ。
 

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