先生のソナチネ1
「サイトー。もう、そこ掃き終わったからいいよー」
「さんきゅー」
「あっ、なんか俺、今すっげー腹痛くなってきた」
「えっ?腹痛いって。弁当が当ったんじゃない?」
「ちっげえよ」
「やっぱあれじゃない?さっき現国の時さあ、アンタ鶴田に隠れて菓子食べてたじゃん」
「やば。斉藤、オマエ見てたんだ?」
「見えるっつーの。音漏れてたしー」
「音漏れ…って、なんかやーらしー」
「何がやーらしーのよ」
「ちょっと……斉藤さんと安井さん」
「わっ!有沢」
「あなた達、今は清掃の時間でしょ。無駄口叩いてないで、早く済ませてください。
吹奏楽部がこの教室を利用するのは、後8分後ですから」
「……」
「はーい……」
「こええ、有沢って」
「ちょっと、聞こえるって」
「いいんだって。ったく、余計腹痛くなってきた」
「もういいから、早く済まそ。有沢さん、また怒ってくるから」
「サイトーの方がもろ聞こえだって」
授業後の清掃の時間。傾きかけた陽の光が、天板をとじたままのグランドピアノに集まっている。
掃除機をかけて、黒板のまわりをきれいにして、部屋の隅にまとめて置かれた譜面台をどかして、そこに溜った埃を箒で掻きだしていく。
音楽室の清掃は、だいたい、いつもこんな感じだ。
視聴覚室から流れてくる、どこかの管弦楽。私にはその曲の名前は思いつかないけれど、子どもの頃から聞いた事のある曲。
4時15分をまわるころ、決まってこの音楽が校内中に流れてくるのだ。
曲がかかり始めてから終わるまで16分23秒ぐらいだと、誰かがそんな事を言って、一時私たちの間で話題になった。
その約15分あまりの時間が、私達の清掃の時間。きっちりやろうと思うと15分では足りない。
けれど、「てきとー」に済ませてしまおうとすれば5分もいらない。
私のクラスの人たちは半分以上が「てきとー」に済まそうとするので、そのたびに有沢さんが軽くかんしゃくを起すのだ。
有沢さんは、私たちの学年の中で、たぶん一番真面目な人だと思う。
頭も良いし、校則は絶対に守るし、言葉遣いだって丁寧。
ちょっと背が高いのを本人は気にしているらしいけれど、私からしたら有沢さんって、物凄くスタイルが良いから羨ましくなる。
化粧は全然していないけれど、お肌が凄くきれいなのも。
飾れば、もっと彼女の魅力が引き立つのに、ほとんどしないのが彼女の良いところだと思う。
でも、ちょっと言葉がきついから敵を作りやすい。
私はあまり気にならないから、けっこう上手くやっていけているのだけど……。
白鷺の様に華奢な背中。有沢さんは黙々と窓ガラスを拭いていた。
校舎の中で一番広い音楽室。
二畳ほどのガラスが16枚もあるのだから、ひとりで拭くのは大変だろうに。
掃除機をしまうと、乾いたふきんを持って私も窓辺に立つ。窓の向こうには野球部が主に使用する第3グランド。
手短に掃除を終えた部員達が、既にグランドのまわりを走り始めている。
今日は自分も忙しいな。
窓に向かって、たてたてよこよこと布巾を動かしながら、掃除の後の事を考えた。
昨日から始まったトマトの収穫を、まずは終わらせること。理事長室の前にある薔薇の剪定をすること。
剪定がうまくいったら、北校舎のはずれまで走って行って、そこに設置してある百葉箱の外回りを掃除すること。
時間があったら、箱の中を覗いて湿度計と温度計が正しく作動しているのか確認すること。
その後は…その…なんだったっけ?
「小波さん」
「へっ?」
やっぱり、有沢さんに注意された。
「へっ?じゃ…、ないでしょ」
横を向くと、眼鏡越しに有沢さんが軽く睨んでいる。注意しながらも、手は休めない。えらいもんだ。
「ごめん、よそ事考えてたー」
「そんなこと分かってます」
更に軽く嫌味。けれど、何にも気にしない私。
「いやあ、結構忙しいなあーって思ってさあ」
「クラブのこと?」
「うん。この前ジャガイモの収穫で大変だったのにさ、次から次へと世話するものが出てきちゃってさ。
園芸部って、もっとこう……お洒落なブーツはいて、可愛いプリントのグローブはめて、
小さな鉢植えをこさえるクラブだと思ってた」
「現実は?」
「ぜーんぜん。昔の言葉で言う、野良仕事だね。すっごい体力勝負。重いものじゃんじゃん担ぐしさ、校舎の緑があるところって
全部自分達の管轄じゃん。もう、走りづめよ。運動系のクラブと運動量は全然かわんないって。むしろ多いって感じ」
「ふふっ」
上品な声で有沢さんが笑う。そうだ、この人は、ちゃんとユーモアの分かる人なんだ。
「クラブがおわると、疲れちゃって、くったくたなの。勉強なんて、全然する気ないし」
「愚痴は良いから、もう終わったら」
「へっ?」
また、「へっ?」って、間抜けな反応をしてしまった。けれど、有沢さんは、もう怒ることは無かった。
怒るどころか笑ってる。静かに、口元だけ笑みを浮かべて。
「あと2分30秒。自由に弾ける時間は、それだけよ」
彼女のめくばせした方向には、一台のグランドピアノ。
いつのまにか天板を大きく開いて、奏でてくれる誰かを待っている。
「わっ!2分30秒?たったそれだけなのー?!」
「そうよ。厳密に言えば、もう2分近いかしら」
「わっ、やだ!どうしよう、ふきん。ふきん!」
「貸して。私が何とかするから」
「へっ?」
三度目の「へっ?」に対しては、もう何もコメントがなかった。代わりに素早く私からふきんをひったくると、彼女はそそくさと教室を出て行く。
さっきまでふざけていた斉藤さん達の姿は、すでに見当たらない。音楽室の中は私一人だ。
「二分、二分、二分、二分……!」
吹奏楽部の人たちがくるまでに、唯一自由にピアノを触ることができる時間。
本当は許可無しで部員以外の人がピアノを触ってはいけないのだけれど、前に一度弾いてみたら、
それを耳にした部長の先輩が特別に許してくれたのだ。
ただし、部員が来るまでの間。部員が一人でも来たら、例え演奏が途中でも終わらなくてはいけない。
「よーし……!」
横長の椅子には腰掛けず、立ったままに私は弾き始める。随分行儀が悪いけれど、そんなこと構っていられない。
昨日は、即興で作った「トマトの歌・パート2」。その前は「守村くんと剪定ばさみ・第一楽章」。そして今日は……!
「”有沢さんって良い人なんだよソング”にしちゃおう!」
まずはマイナーな感じを前面に出して、Bメロでがらっと雰囲気変えて。
有沢さんって、本当は美人さんなんだよー、本当はツンデレなんだよーって。
譜面なんて一枚も無い。思いのままに弾く。これが私のピアノ。誰かに習ったことなんて無い。全部、自分で考えて弾く。
「やーん!もっと時間が欲しいー!!」
右指で激しくトリルしながら、私は激しく悔しさをぶちまけた。
いやっほーい。ひっさびさに話かいてるよー。
「サイトー。もう、そこ掃き終わったからいいよー」
「さんきゅー」
「あっ、なんか俺、今すっげー腹痛くなってきた」
「えっ?腹痛いって。弁当が当ったんじゃない?」
「ちっげえよ」
「やっぱあれじゃない?さっき現国の時さあ、アンタ鶴田に隠れて菓子食べてたじゃん」
「やば。斉藤、オマエ見てたんだ?」
「見えるっつーの。音漏れてたしー」
「音漏れ…って、なんかやーらしー」
「何がやーらしーのよ」
「ちょっと……斉藤さんと安井さん」
「わっ!有沢」
「あなた達、今は清掃の時間でしょ。無駄口叩いてないで、早く済ませてください。
吹奏楽部がこの教室を利用するのは、後8分後ですから」
「……」
「はーい……」
「こええ、有沢って」
「ちょっと、聞こえるって」
「いいんだって。ったく、余計腹痛くなってきた」
「もういいから、早く済まそ。有沢さん、また怒ってくるから」
「サイトーの方がもろ聞こえだって」
授業後の清掃の時間。傾きかけた陽の光が、天板をとじたままのグランドピアノに集まっている。
掃除機をかけて、黒板のまわりをきれいにして、部屋の隅にまとめて置かれた譜面台をどかして、そこに溜った埃を箒で掻きだしていく。
音楽室の清掃は、だいたい、いつもこんな感じだ。
視聴覚室から流れてくる、どこかの管弦楽。私にはその曲の名前は思いつかないけれど、子どもの頃から聞いた事のある曲。
4時15分をまわるころ、決まってこの音楽が校内中に流れてくるのだ。
曲がかかり始めてから終わるまで16分23秒ぐらいだと、誰かがそんな事を言って、一時私たちの間で話題になった。
その約15分あまりの時間が、私達の清掃の時間。きっちりやろうと思うと15分では足りない。
けれど、「てきとー」に済ませてしまおうとすれば5分もいらない。
私のクラスの人たちは半分以上が「てきとー」に済まそうとするので、そのたびに有沢さんが軽くかんしゃくを起すのだ。
有沢さんは、私たちの学年の中で、たぶん一番真面目な人だと思う。
頭も良いし、校則は絶対に守るし、言葉遣いだって丁寧。
ちょっと背が高いのを本人は気にしているらしいけれど、私からしたら有沢さんって、物凄くスタイルが良いから羨ましくなる。
化粧は全然していないけれど、お肌が凄くきれいなのも。
飾れば、もっと彼女の魅力が引き立つのに、ほとんどしないのが彼女の良いところだと思う。
でも、ちょっと言葉がきついから敵を作りやすい。
私はあまり気にならないから、けっこう上手くやっていけているのだけど……。
白鷺の様に華奢な背中。有沢さんは黙々と窓ガラスを拭いていた。
校舎の中で一番広い音楽室。
二畳ほどのガラスが16枚もあるのだから、ひとりで拭くのは大変だろうに。
掃除機をしまうと、乾いたふきんを持って私も窓辺に立つ。窓の向こうには野球部が主に使用する第3グランド。
手短に掃除を終えた部員達が、既にグランドのまわりを走り始めている。
今日は自分も忙しいな。
窓に向かって、たてたてよこよこと布巾を動かしながら、掃除の後の事を考えた。
昨日から始まったトマトの収穫を、まずは終わらせること。理事長室の前にある薔薇の剪定をすること。
剪定がうまくいったら、北校舎のはずれまで走って行って、そこに設置してある百葉箱の外回りを掃除すること。
時間があったら、箱の中を覗いて湿度計と温度計が正しく作動しているのか確認すること。
その後は…その…なんだったっけ?
「小波さん」
「へっ?」
やっぱり、有沢さんに注意された。
「へっ?じゃ…、ないでしょ」
横を向くと、眼鏡越しに有沢さんが軽く睨んでいる。注意しながらも、手は休めない。えらいもんだ。
「ごめん、よそ事考えてたー」
「そんなこと分かってます」
更に軽く嫌味。けれど、何にも気にしない私。
「いやあ、結構忙しいなあーって思ってさあ」
「クラブのこと?」
「うん。この前ジャガイモの収穫で大変だったのにさ、次から次へと世話するものが出てきちゃってさ。
園芸部って、もっとこう……お洒落なブーツはいて、可愛いプリントのグローブはめて、
小さな鉢植えをこさえるクラブだと思ってた」
「現実は?」
「ぜーんぜん。昔の言葉で言う、野良仕事だね。すっごい体力勝負。重いものじゃんじゃん担ぐしさ、校舎の緑があるところって
全部自分達の管轄じゃん。もう、走りづめよ。運動系のクラブと運動量は全然かわんないって。むしろ多いって感じ」
「ふふっ」
上品な声で有沢さんが笑う。そうだ、この人は、ちゃんとユーモアの分かる人なんだ。
「クラブがおわると、疲れちゃって、くったくたなの。勉強なんて、全然する気ないし」
「愚痴は良いから、もう終わったら」
「へっ?」
また、「へっ?」って、間抜けな反応をしてしまった。けれど、有沢さんは、もう怒ることは無かった。
怒るどころか笑ってる。静かに、口元だけ笑みを浮かべて。
「あと2分30秒。自由に弾ける時間は、それだけよ」
彼女のめくばせした方向には、一台のグランドピアノ。
いつのまにか天板を大きく開いて、奏でてくれる誰かを待っている。
「わっ!2分30秒?たったそれだけなのー?!」
「そうよ。厳密に言えば、もう2分近いかしら」
「わっ、やだ!どうしよう、ふきん。ふきん!」
「貸して。私が何とかするから」
「へっ?」
三度目の「へっ?」に対しては、もう何もコメントがなかった。代わりに素早く私からふきんをひったくると、彼女はそそくさと教室を出て行く。
さっきまでふざけていた斉藤さん達の姿は、すでに見当たらない。音楽室の中は私一人だ。
「二分、二分、二分、二分……!」
吹奏楽部の人たちがくるまでに、唯一自由にピアノを触ることができる時間。
本当は許可無しで部員以外の人がピアノを触ってはいけないのだけれど、前に一度弾いてみたら、
それを耳にした部長の先輩が特別に許してくれたのだ。
ただし、部員が来るまでの間。部員が一人でも来たら、例え演奏が途中でも終わらなくてはいけない。
「よーし……!」
横長の椅子には腰掛けず、立ったままに私は弾き始める。随分行儀が悪いけれど、そんなこと構っていられない。
昨日は、即興で作った「トマトの歌・パート2」。その前は「守村くんと剪定ばさみ・第一楽章」。そして今日は……!
「”有沢さんって良い人なんだよソング”にしちゃおう!」
まずはマイナーな感じを前面に出して、Bメロでがらっと雰囲気変えて。
有沢さんって、本当は美人さんなんだよー、本当はツンデレなんだよーって。
譜面なんて一枚も無い。思いのままに弾く。これが私のピアノ。誰かに習ったことなんて無い。全部、自分で考えて弾く。
「やーん!もっと時間が欲しいー!!」
右指で激しくトリルしながら、私は激しく悔しさをぶちまけた。
いやっほーい。ひっさびさに話かいてるよー。
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