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「かげぼうし」

昔、僕のことを至極可愛がってくれた人がいた。
母さんのお姉さんにあたる人らしい。僕にとって伯母にあたるのかどうかよくわからない。
祝う時と弔う時にしかその人と会う機会はなかったけれど、顔をあわせるたびに菓子をくれ、
ふくよかな胸の中に僕の体をぎゅっと包んでくれた。
母さんとは随分雰囲気の違う物静かな人だったけれど、僕はその人のことが好きだった。

その人と最後に会ったのはいつの頃だったろうか。
あの時も僕の知らない人を弔う席だった。
白檀の香が立ち込める仏間から少し離れた部屋で、僕は一人時間をもてあましていた。
寂しくて淀んだ空気を幼いなりにわかっていて、大人たちがいる場所へはとても近寄れなかった。
円卓の上の茶菓子を食べて、絵本を広げて、座布団の上に寝転がる。
そんな戯れを長い事続けて良い加減に飽きていた時だ。
「太陽ちゃん」と小さな声で、その人は僕の名前を呼んだ。

---太陽ちゃん。一人でお留守番してたから、おばちゃん良い事教えてあげるよ。
その人は、僕を膝の上に座らせると静かに話しをしてくれた。
---もしもアンタが大きくなって、誰か好きな人でもできたらね、
その人の影法師をそっと踏んでおやり。
そっとだよ。そうしたら、きっと好きな人はあんた、太陽ちゃんの事を好いてくれる。それに……。

----それに、あんたのそばをきっと離れないから。

それに、の続きはもっともっと小さな声だった。幼心に、その人の言葉はとても染みた。
あれから随分僕は大きくなったのだけど、それでも時々思い出しては感傷に浸ることがある。
きっとあの弔いの席は、あの人の近しい人だったのかもしれない。
何故なら、あの人の眼が兎のように赤かったから。
そして僕は今、あの人が教えてくれた言葉をこっそり実践してみようと思っている。
こんなまじない、何の効き目も無いと思う。
けれどそうだとしても、そっとその細い影を踏んでみたいのだ。

***********


 

---たしかあのコ。春日くんって言うんだっけ。さっきの送球結構良かったんじゃない?
日が沈みかけたグランド。かすれた掛け声と太い野次の中で、
彼女の声は一際清んだ音として僕の耳に届いていた。
いつのまにか僕は母さんの背を大きく越し、毎日学校が終わるとグランドで野球の練習に励んでいた。
ダイヤモンドの一角から数メートル離れた場所、内野手が取り損ねたボールを
全て拾い集めるのが僕の役目。
なりはでかくなっても、心の方は昔と変わらず軟弱な方で、
練習を終えるたびに後悔と挫折を繰り返している。
自分で言うのもなんだけど、芯からネガティブ思考な奴だと思う。
そして、ベンチの奥でスコアボードを片手に、さっきから部員全員に声援を送っている……
いつか踏んでみたい影法師の主は、僕より2つも年上の先輩だった。
とても明るくて、誰にでも優しくて、笑うと右の頬にぽちっとえくぼができる。
当然の事ながら、彼女は皆に好かれていた。
50人以上もいる大所帯の中で、僕みたいな下っ端は名前さえも覚えてもらえないと
思っていたのに、彼女は僕が入部したその日に、僕の名前を覚えてくれた。
----春日くん、下の名前は太陽って言うんだ。良い名前だね。
そう言うと、彼女は僕のキャップに手を伸ばした。
髪の毛はできるだけ帽子の中にしまうか、短く刈り込んでくるようにと
早速小言を頂戴したけれど、僕は殆どはなしを聞いていなかった。
彼女の白い手が、そっと僕の髪に触れたから。
少し癖のある僕の髪は、彼女に触れられた効果で更にくるくるとうねりそうになった。
中学の頃からここに進路を決めていたけれど、その志望の1つが
彼女だとはとても言えなかった。
まだ、母さんと僕の背が同じぐらいだった頃、僕は今よりもずっと
生き辛い日々を送っていた。
勉強のことも、友達のことも、何一つ不自由していることはなかった。
でも、いつも僕には何かしら後ろめたい気持ちがつきまとっていた。
普通に呼吸をする事すら哀しくて、本当に辛い辛い日々だった。
これが思春期特有の感情なのだと知ったのは、つい最近の事だ。

そんな中、志望校の野球の試合を見に行った時に、彼女の姿を見つけた。
掃き溜めに鶴と言う言葉があるけれど、彼女はまさしく鶴だった。
試合終了後の、まだ負け試合の悔しさが残っているグランドの上を、
彼女は他の部員達とトンボをかけていた。
悔しさに嗚咽をはきながらグランドの土をならす部員達に、
彼女は優しく肩を叩き包み込むような笑顔でその哀しさを受け止めていた。
その時見た彼女の影法師が、あまりにもはかなくて、僕は気がつくと泣いていた。
そして僕は、そんな彼女に恋をした。

きっと彼女は、僕の気持ちなんて知らないだろう。
だけど、もっともっと練習をしてレギュラーのポジションを獲得したら、僕はあの「おまじない」を
実行してみようと思うのだ。
そうしたら、おばさんの赤い眼の想い出も、線香臭い部屋の中で退屈してことも、
今までも後ろ向きな考えも全て消えてしまうような気がするのだ。
----先輩。次に球が僕のところに来たら、僕、ちゃんと取りますからね。
だからお願いです、僕のこと見ていてください。
そして、あなたの影、そっと踏ませてください。
やや腰を低めにして、次の打者を待ち構える。向こうは1番。打順が先頭にまわってきた。
これはヒットの予感だ。

さあ、来い。
僕はグローブのひらに、がつりと拳骨をあてていく。ピッチャーは大きく振りかぶった。


fin



「かるた企画」読み札の「ほ」。
これにちなんで小噺を1つ。
 
春日きゅんのナイーブな感情を、こんな感じで書いてみたよ。
 

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