「アオサさんから、お餅もらったよ」
そう言って、マスターさんは小さな包みを大事そうにカウンターの上に置いた。
アオサさん?ああ、アオサさんかあ。一瞬、頭の中で”アオサさんとは”と、確認してみる。
そうだそうだ、マスターさんと仲良しのアオサさん。いつも浜辺でアオサをとっている御婦人だ。
「アオサさん…久しぶりに会えたんですね」
包みの隣に置いた盆と珈琲カップをシンクの中に入れる。
アオサさんが「出前」を注文した時にしか出さない一客の茶器。
当時はきっと縁取りにきれいな鍍金が施されていたと思う、その古いカップを、私は注意深く洗う。
「うん…。最近少し体を悪くされてたからね」
マスターさんは控えめに答える。
夏の間、ほぼ毎日のようにアオサさんからの「出前」が入ったのに、秋になるとぱたりと注文は途絶えた。
こんなことは初めてだと、マスターさんは暫く海のほうを眺めていた。
もしかしたら遅ればせの夏バテかもしれない。また直に電話が鳴るだろう。
そう思ってみたのだけど、アオサさんは来なかった。
次第に海はどんよりと暗くなり、少しでも足をつけていられないほど冷たくなっていく。
誰もがアオサさんの事を口にしなくなった矢先の事だった。
「じゃあ、お体は良くなったのですね」
ほっとした気持ちになる。洗い終えた茶器を乾燥箱の中に入れていると、マスターはカウンター席に腰を下ろした。
「うん、良くなった」
「そうなんですね。良かった!」
カウンター越しに、マスターさんと目が合う。
だけど冬の海のように暗いまなざしに、思わずマスターの顔を覗き込んだ。
「どう…したんですか?」
アオサさん、お体良くなったんでしょ。良い事なのに、どうして浮かない顔をしてるんです?
火にかけていたケトルの口から湯が静かに吹いている。
火を止めると、私は引き出しから小さな茶缶を出した。
茶さじに一杯の粉を湯のみ茶碗に入れ、すぐに湯を注ぐ。
何も言わずに差し出すと、マスターさんも黙って茶碗に口をつける。
「昆布茶だね…。美味しいよ」
ようやく、マスターさんに笑顔が戻った。
お店を昼過ぎに切り上げると、私は海に向った。
雲り空の下、海は黒くうねっていた。
波間に三角の烏帽子(えぼし)の形をした岩が突き出ていないかと、探してみる。
その場所は、夏休みの最後の日、佐伯くんがサザエを探しに潜ったポイント。
結局サザエは見つからなかったけれど、代わりに小さな巻貝を見つけてくれた。
貝を手のひらにのせてくれた時の彼の表情がとても優しくて、思わず胸が高鳴った。
それは一瞬の出来事だったけれど、時々こうして海を眺めに行くのは、
あの時の優しい思い出を振り返りたくなるからだ。
「さっむーい!」
烏帽子岩はすぐに見つかった。だけど、人が踏み込む余地はどこにも無かった。
岩を砕くかと思うほどの荒波が絶え間なく寄せてくる。泳ぎが得意な佐伯くんでも、近づくのは無理だと思う。
吹きすさぶ潮風に体が震えてくる。思わずはめていた手袋で頬を押さえて、目をぎゅっと瞑ってみる。
今度目を開けたら、目の前には夏の海が広がっていて、
佐伯くんが私の為に貝を探しに海に潜っていると良い。
そんなことを念じながらゆっくりと目をあけてみる。耳元でひゅうひゅうと海鳴りが聞こえた。
「さむい」
何だか哀しくなって思わず口にしてしまった時だった。後ろのほうで誰かの気配を感じた。
「ったり前だろ」
振り返ると、佐伯くんがそこにいた。黒いベンチコートを羽織った佐伯くんは、細長のペンギンみたいだった。
「ったく、馬鹿みたいに突っ立ってない」
相変わらず口は悪いけれど、佐伯くんは優しい。急いでコートを脱ぐと私の腕をつかんだ。
「佐伯くんが風邪ひいちゃう」
「悪いけど、俺は引かないから。って、なにが悪いのか自分で言ってて良くわかんないけど、
とにかく俺のことは心配するな」
「うん…」
キルティングの裏地がふわりを私を包む。まるで子どもに着せるかのように、ボタンまでかけてくれる。
「餅焼いて食べるってマスターが言うから呼びに来たんだけどさ」
「餅って、アオサさんの?」
「アオサさん?って、言ってたかなあ…。あ、そんな事言ってたような気がする」
「お餅食べるために探しに来てくれたの?」
「うん?まあ、そんなとこ」
背を屈めて、首元のボタンをかけてくれる。
勇気を振り絞れば、そのまま彼の背中を抱きしめることが出来るのに、ずっと直立したままだ。
「あっ、思い出した。確かその人さ、今度どこか引っ越すって言ってた」
「えっ?引越しちゃうの?!」
私の驚いた声に佐伯くんは顔をあげた。
そのとき初めて、わたし達が近づきすぎている事に気づいた様だ。
咳払いを一つすると、佐伯くんは私から一歩離れた。
「そっか…」
だからマスターさんは元気が無かったんだ。
アオサさんの所へ珈琲を届けに行く時、マスターさんはどこかそわそわしていた。
マスターさんにとって、アオサさんは大切なお客さんでもあり、友達であったと思う。
マスターさんの事を思うと、とても切ない。
「オマエが凹むことじゃないよ。永久にお別れってわけじゃないんだし」
佐伯くんは労わるような眼差しを私にむけてくれる。
「うん」
「また暖かくなったら、海を見にくるんじゃないの」
「うん」
潮風でぐしゃぐしゃになった私の髪に触れると、佐伯くんは更に手櫛でぐしゃぐしゃにした。
「ひどーい」
「ほら、店に戻るぞ」
素っ気無い声。だけど、佐伯くんはいつも優しい。
寒そうに背を丸める彼の後を、私は小走りでついて行った。
FIN
「アオサさん」は、『浜辺の人』と言う短編の中に出てきた御婦人。
御婦人と言っても結構な年配の方で、総一郎さんと恋愛の対象にはならないと思います。
夏の珊瑚礁の話に続いて、冬の珊瑚礁の話として書いてみました。